Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

『偉大なる道』にまつわる儒教いろいろ

本の題名はもう忘れてしまったけれど、政治哲学者ハンナ・アーレントの「個人にいったん身についた観念を取りのぞくことはむずかしい」という内容の文章を読んで、静かな納得を得たことがある。

 

『偉大なる道』は、儒教精神でつちかわれた封建社会から脱皮して、新しい社会を築くために大きな社会変革をおこしながら苦闘した、朱徳と仲間たちの物語とよんだ。

反対勢力との血なまぐさい闘争をへて、この難事業を成功させることができたのは、封建社会で虐げられてきた民衆の共感と支持を得ることができたからだ。

詳しい見識は持ち合わせていないけれど、毛沢東の農民路線はあの時代を超えていくには正しかったんだと思える。

しかし、新しい社会が無信仰・無宗教に根ざしたものなので、その後も問題や弊害が続いていていると解釈している。
竹をすぱっと割るようにことは運ばないということ。

個人的には「無信仰・無宗教」という言葉に引っかかってきている。

儒教を捨てても儒教が入っていた器はずっと残ってきたはずで、社会や個人から器を完全に処分することはできないという立場に立っている。

 

朱徳個人に焦点をあてると、旧から新社会、最終的には共産主義イデオロギーを支持する立場へとまたいでいくひとりの男の姿を詳しく記録したものになり、珍しい作品になっている。

朱徳の方に語りにくいことやできたら伏せておきたい話しもあったこともわかっている。

そういうふるまいも人間的な感じがして好ましく思っている。

それと大事なことなので繰り返すが、このブログの管理人は別に共産主義者でもないし、シンパでもない。

この本の魅力を語りたいと思っているだけ。 

 

さて、あらためて儒教とは何かをWikiで調べてみた。

孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ」

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える」 

 

「仁、義、礼、智、信」は、一昔前の儒教文化圏ではとくに好まれる漢字で、人物の名前によく使われてきたことからも影響力がうかがわれる。

 

領土を治める支配者側や、一族にあっては家長、家庭の中では男にとって都合のいい思想体系であったのだろう。

だからこんな何世紀にわたって維持できたのかなと思う。

辛亥革命後の混乱時期に、孫逸仙孫文)から政権をゆずりうけた悪名高い袁世凱は、儒教を国教にして復活させようとまでした。

 

魯迅が「死んだ人間のために、いま生きる人間が犠牲になっている」という内容で、儒教批判していた文章を読んで感動したことがある。

 

建国後、儒教を否定している中国でも、日本や台湾や北朝鮮などでもそれなりに残されている。

しかし、現在、儒教がいちばん根強く残っているのは韓国だと思っている。
これは国自体が認めているし、美点として語られてもいる。


偶然、外野で育ったものから見れば、韓国は儒教精神が形式化されて、徹底されている社会に見えるし、日本の天皇制に似ているようにも感じてきた。

近代天皇家の婚姻をふくむさまざまな儀式のスタイルは、英国の王室のスタイルと儒教精神がミックスされたものに見える。

一方、韓国社会の弊害の原因をつきつめていけば、儒教精神にぶつかるのではないかと考えている。

 

韓国はキリスト教も盛んで、とくにカトリック信者は日本より多いはず。

個人としてクリスチャンになって儒教から多少自由になっても、一族から完全に距離はおけないせいか、ほのかに儒教の香りがするように感じる。

日本の場合は仏教の香りだと思う。

 

むかしマレーシアからきた女性留学生から聞いた話。

日本に来て最初の年のクリスマスシーズンを迎えて近所の商店街がそれ一色になった。

自分は仏教の国へ来たと思っていたが、住んでいるエリアはクリスチャンが多い町だと思ったらしい。

宗教に関しては日本社会のなんでもありで、ゆるゆるの環境がうらやましいとも言われたことがある。

マレー系のマレーシア人=イスラム教徒と考えると個人的にはちょっと窮屈な感じがする。

韓国人の儒教の関係もこれとよく似ていると思った。

ただ、韓国人は移動や結婚も信教の自由もあるので、異文化に出会うことで変化していっている感じはする。

儒教の弊害のひとつをあげるとすれば、異常な教育熱ではないか。

 

個人的には、儒教は博物館の展示物と考えていて、眺めるものとわりきっている。

特異な事情が重なって、ルーツがKoreaにあるにもかかわらず、自覚するかぎり儒教が身についていないし、好きになれないし、それどころか儒教批判する文章に強い共感をおぼえるようでは、どの集団にも帰属感がもてないのはあまりに当然。

 

『偉大なる道』に話を戻すと、儒教社会を否定することは、政権のトップから末端の民衆の男にとって、伝統的にうけついだ既得権益の半分を女にゆずりわたすことでもあるから、それはそれは大変な変革事業だった。

こういうことは綺麗事ではできなかったはずだと思う。

 

儒教からとりあえず解放された立ち位置から、ひとり静かに痛みをうけいれる瞬間が好きだ。

今までなんどもしてきたことだ。

 

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『偉大なる道』にまつわる遺伝いろいろ

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数年前、元力士と綺麗な顔立ちのアナウンサーを両親にもつ息子が、靴職人というユニークな職業についたという話題を知ったとき、「いい仕事えらんだな」と感心したり、顔立ちや雰囲気が両親に微妙に似ていて、DNAがもたらす不思議さを感じたものだった。

 

いくつあるかわからないけれど、子が成長していく中で展開される心身のいい面は両親から受けついだものにかなり強く左右されるという確信をもっている。

身辺や、子育てを通じて見えた景色や、有名人の境遇を見たり聞いたり読んだりを通じて、そう考えるようになってきた。

特に音楽、美術などの芸術方面や身体能力については両親のどちらかから受け継いでいるように思う。

 

最近テニスプレイヤーとして世界的に脚光を浴びている大坂なおみさんの両親は、特にテニスができるというわけではないらしいが、有色人種であることは関係なく、どちらかは身体能力は高い人だと思っている。

ピアニストのフジコ・ヘミングさんのドキュメンタリーを見たことがあるが、ピアニストのお母さんから生きていく手段としてピアノの猛特訓を受けて育った。

両親は彼女が小さい頃に離婚したので、スウェーデン人のデザイナーだったお父さんとは別れて以来一度も会っていないという。

ところが彼女はピアノ演奏とは別にイラストを描くことも好きで、作品は独特の雰囲気があり感心した。この道でも生きていけた人だったかも知れないと思ったりした。

 

一昔前は「氏より育ち」という言葉があってたが、今は「環境よりDNA」だと思っている。

たまたま両親のどちらかから受けついだDNAの方が、環境よりその人物の人生にあたえる影響ははっきりしていると思う。

ある人物の秀でた面を考えるとき、どういう両親でどういう環境で育ったかは興味ある情報だ。

 

それと遺伝に関しては、長男は母親、長女は父親に容貌、雰囲気、「好きなもの、好きなこと」が似ていている傾向が強くて、次男次女はその逆、三男三女以降については情報不足でなんともいえないという自論をもっている。

 

これを否定する人いるかな? 

個人的には8割、9割であたっていると思っている。

 

『偉大なる道』で朱徳の人生を味わっていると、この遺伝について考えざるを得ない事例を発見することが何度かあった。

朱徳は、何代もつづく農民一族の出身という環境から考えて珍しいほど音楽がそれなりにわかる人だった。

スメドレーもこの件については、母方の影響を考えていた。

 

「朱家の子たちは、民謡をうたったり、手に入るものならどんな楽器でも鳴らしたりして生長して行ったが、それについては、おそらくチュン家の血が物をいっているのだろう。」

 

朱徳の母親は旅芸人の娘で、やさしい性格の持ち主でもあり、三男の朱徳は「母親似」と客観的に自分を語っている。

父親はすごく乱暴でむごい人で、朱徳儒教社会の習いで形式的には敬意をはらっていたが、内心は嫌っていた。
後年は、父親の乱暴さは多くの人民と同じく、封建社会の貧苦のなかで形成されたものと理解し同情していた。

 

長男は笛や胡琴を上手に演奏できて、記憶力が優れていたので、塾では要領よく勉強して、残りの時間は短い歌を習いおぼえては笛で吹いたりした。

次男は乱暴者で小鳥を殺しては喜んでいるような子で、朱徳を悲しませた。

家族の決断ははやい。


「まったく頭が悪かったので、彼の家ではすぐに彼を退校させ、畑ではたらかせることにした」

 

三男朱徳は塾で熱心に勉強し、長男の楽器の演奏をききながら、自分でも演奏できるようになった。

 

朱徳はまじめな人だ。

その後科挙受験の勉強をしたり、家族への仕送りのために体育の先生になったり、儒教社会の規範の一つ「親への孝行」を「国への孝行」にシフトさせて、軍人になり、辛亥革命で活躍する。

革命後の挫折の日々に、再婚した女性とつかのまの安らぎをえる。


「ユ・チェンは琴を弾じ、朱は笛を吹き胡琴をかなで、後には他の楽器類を買いもとめて修得したが、その中にはオルガンもあった。」

 

軍人であり、写真を見る限りどこまでも農民らしい粗野な朱徳が、オルガンをひけたなんて想像しにくい。

 

その後フランスをへてドイツに留学する。

彼の友人たちにとって退屈であるか、大きな音を鳴らす騒音でしかなかった歌劇や演奏会に熱心にかよい、ベートベンが好きになったという。

 

ドイツで政治活動を続ける朱徳は3回警察につかまり、2回は領事館が介入してすぐに釈放された。
3回目のときも楽観して拘禁生活を楽しんで睡眠不足をとりもどした。


「……毎朝、守衛が私の小さな房に入ってきて、うすいコーヒーの入ったブリキ缶と黒パンの一かたまりを置いた。私はそれを平らげると、運動をやり、しばらく歌をうたって暇つぶしをし、それからまた寝た。……」

 

『偉大なる道』での名シーンのひとつととらえている。

 

土地革命を実施していくなか、ある地方では、貧苦のため男たちが海外に出稼ぎに出て、残された女たちは男の仕事をしながら、たくさんの「恋慕の歌」をつくった。
なかでも「いとしい人」という言葉ではじまる歌を聞いた兵士は、自らの境遇を重ねてすすり泣いたらしい。

 

「朱将軍はたちあがって、私の部屋の小さいオルガンのそばにゆき、この民謡をうたいはじめたーー」

 

朱徳はなんと弾き語りができた! 両手で弾けたのかな。

朱徳とスメドレーと通訳の3人と音楽が流れる名シーンだ。

 

やがて、毛沢東の軍と合流し、井岡山を拠点にして紅軍を結成したのだが、忙しいあいまをぬって、朱徳ならではのことをしている。

 

「井岡山にいるあいだに、朱将軍は、紅軍がつかっていた歌をあつめ、それをふやすのに一生けんめいになりはじめた。1937年には、これらの歌は、彼の上着のポケットに、たやすくすべりこませることができるくらいの大きさの、およそ2百ページの小さな本になっていた。この本は、ページのすみが、めちゃくちゃに折れ、手あかでよごれ、あるページは、ほとんど読めなくなっていた。」

 

朱徳のこのノートはいまどこで保管されているのかな。

中国映画『黄色い大地』で若い紅軍の兵士が地方の寒村にやってきたのは、貴重な歌を収集するためだったはず。
朱将軍もすすめているという内容のセリフがあったと記憶している。

すべてがつながってゆく。

 

「インキのしみだらけの色あせた赤い布の表紙をし、粗末なとじ方をした、この小さな歌の本を、やさしくなでまわしながら、朱将軍は、井岡山のあらあらしい岩山や、青々とした緑の谷、竹の林や、もみの森、潅木とかぐわしいさまざまな花、ほとんど一年中、山々をつつんでいる白い雲などを、じっと思いうかべていた。」

 

こういうことは朱徳だけの功績ではないが、ずっと見てくると、朱徳の母親の影響はゼロとはいえない。

 

ただ、「環境よりDNA」の影響の方が強いと思っているが、視野の狭い悲観主義に陥る必要もない。

長く人生を生きてくると、人は複雑で展開していく人生も多面的で、全てが決定される要因が存在すると考えるものではないこともわかってくる。

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『偉大なる道』にまつわる養子いろいろ

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もう十数年前ごろにネットで、ハリウッドの俳優アンジェリーナ・ジョリーの離婚に関するニュースが流れているのを興味深くみた記憶がある。

有名人の離婚ニュース自体はありふれていてさほど気にもとめなかったけれど、彼女が実子以外にアジアの子どもを養子にしているという事実にはちょっと驚いた記憶がある。

 

とても若い頃の思い出だけれど、外国の空港の待合コーナーで、たまたまとなり合わせになったやさしそうな年配のご夫婦と雑談の後、一枚の写真を見せられたことがある。

アメリカの白人夫婦を取り囲むように何人かの子どもたちが立っている、よくある家族の記念写真だが、その中にあきらかに顔つきの違う子どもがひとり混じっていた。

その子を指差して、夫婦が韓国から迎えた養子だと自慢していたことを覚えている。

私の養子への感想を聞いて、ご夫人の方が悲しげな顔をして、日本でも韓国でも他人を養子にすることがほとんどないと語っていたことが印象に残っている。

今は時代の変化とともに養子の考え方も変わってきていると思う。

 

同じく数十年前に韓国に長く滞在していたカナダ人の宣教師夫妻と知り合いになり、実子以外に韓国から養子を迎えていることを知ったときも、当時は奇異に感じたものだった。

教養があり文化的に豊かな家庭を築いておられたけれど、決して経済的に豊かな家には見えなかったこともあった。

とくに夫人からはキリスト教への好印象を得た思い出が残っている。

 

養子であることの家族内の葛藤を描いたアメリカ映画を観たことがあるので、すべてうまくいくとは限らないと思うが、知識人層においては経済的な余裕だけでは語れない、キリスト教に根ざした懐の深い文化の違いを強烈に感じた。

 

儒教文化圏だった東アジアでは養子に関する意識は違ってくる。

 

朱徳も養子であった。

朱徳の家は、祖父母と息子たち夫婦とその子どもたちの三代で構成されていた。

 

「すべての農民家族と同じく、朱家とは、飢餓からまぬがれるためのきびしい重労働を目的として組織された経済的単位であった。」

 

家長である祖父のしっかり者の妻が家の内外の労働の割り振り、経済的管理すべての采配をふるって一家をまとめていた。

儒教社会での女性の地位の低さがよく語られるが、働き者の息子をたくさん産み育て、いいところへ嫁にやれる娘を育てた女性はやがて家族から敬意をもって扱われることは、一昔前の韓国社会を垣間見て感じてきた。

 

一方で、男子を産めなかった女は儒教社会では生きづらかったことは想像できる。
必ずしも女側の原因ではないが、何年も妊娠しなかった場合、一方的に女のせいにして婚姻を破棄されることが多い社会だった。

ただし、子が産めない女の不幸は聖書にも出てくるし、西洋社会でも似たようなものだったと思う。

 

朱徳の伯父は長男で将来家長になると期待されていたが、子がいなかった。
彼は、当時としては珍しく、そのことで妻を虐待することも追い払うこともしなかった。

そこで朱徳の両親である弟夫婦から三男である朱徳を固めの式によって養子にした。

 

「……一族は同じ屋根の下に住んでいるのだから、その新関係はすこしの変化ももたらさなかった。この養子縁組のおかげで、朱家の全息子のうちで彼ばかりが選ばれて、家を税吏その他の役人から守るために、教育を受けることになった。」

 

当時の社会ではこういう養子縁組は珍しいことではなかったはず。

むかし父方の一族の韓国の族譜(家系図のようなもの)を眺めていたとき、李氏朝鮮時代以前にこういう養子縁組の記載がよくあった。

どこから「出て」どこに「入る」という事実がわかる。
不妊夫婦は3親等の甥から養子にしたようだ。

 

儒教社会で男系男子で一族を維持していこうと思えば、最後の切り札として、こういう身内の養子縁組で問題を解決することが必要だったということだ。

この場合も必ず一族からの養子であり、たとえば朱家にどこか別の○家からの男子を養子にすることは当時は考えられないことだったと思う。

姓が男系血縁集団を表現しているからだ。

 

韓国では再婚した女性の前夫との間にできた子の姓を変えることは可能らしいが、今でも、子がない夫婦がまったくの他人を養子をすることは、極めて珍しいというかほとんどないと思う。

封建社会を否定した現在の中国はどうかわからない。

中国は多民族社会なので、とりあえず漢民族の慣習としてこのあたりのことを識者に訊いてみたい。


朝鮮戦争後発生した多くの孤児が海外の養父母に送られたのも、韓国社会に経済的余裕がなかっただけでは説明できない。

 

日本は中国や韓国とはまた違っている。

家制度を守るために、息子がいない場合は婿養子という制度を利用して世代を繋ぐことがあって、これは日本独特だと思う。

血縁に拘らないから家長の男子は誰でもいいことになる。

ただし例外もある。

江戸時代の徳川家の家系図を見ると、正妻+αの女性のおかげで一応男系男子で三百年つないできている。

天皇家も婿養子を認めてきていないところが共通している。

 

あまり詳しくないし、話が混乱してきたので、朱徳の時代に戻る。

周恩来は、革命途上で夫人が流産して以降、実子がなかった。

ふたりは孤児を何人か養子にして、慰みを得てきたようだが、そのひとりは朱徳雲南軍時代の親友でいっしょにフランス留学した孫炳文の娘だった。

孫炳文は革命途上で国民党軍に捕まり殺されるまで、周恩来の近くにいた人だった。
周恩来の養女になったこの女性は俳優志望というだけあって、目鼻立ちが整った人でひときわ目立つ人だ。
ところがどんな理由があったのかわからないが、文化大革命時代に悲惨な境遇で若くして亡くなっている。

 

作家ハン・スーインも子を産まなかったので、国民党軍の将校と結婚していたときに、身寄りのない女の子を養女にした。

この養女は映画「慕情」にも可愛い女の子として出てくる。

 

男系男子の血縁にこだわる慣習(Y染色体への信仰)は確実に少なくなってきているのが世界的な潮流だと思う。

 

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族譜の思い出

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韓国語では「チョッポ」と発音する。
 
父系血縁集団である宗族の重要な人物の事績や重要な事件や家訓などを記載した文書である。
中国が発祥で朝鮮半島も影響を受けて作られたもので、15世紀まで遡るらしい。

15世紀に何かあったんだろうか? それとも16世紀ぐらいに出自を明確にしようという運動が地方であったのだろうか?
 
いつのことか私が育った家にも「族譜」が突如あらわれたことがあった。
かんたんにいえば、中祖の偉人を同じとする一族の家系図やそこに連なる男系男子の個人情報である。
最近のものは、時代の変化を受けて、女子の情報も載るが、家系図には連ならない。 

個人的には骨格はある程度は信用するが、必ずしも歴史的文書としては扱えないと考えている。

しかも人に見せるものではないし。

これは韓国にいる親族が、アイデンティティ確立の一助にと考え、好意で父に贈ったものだった。
電話帳のような厚さの本が10数冊並ぶもので、1メートル近い。

1冊1冊の背表紙がしっかりしているので、立てても倒れにくい。
しかし狭い部屋に置くには存在感がありすぎて、息苦しささへ感じてしまう。
 
儒教世界に片足は置いていた父でもあるし、歴史好きでもあるので、一応男系男子の名前を確認しながら、一族の検証はしていた。
歴史に興味があるという点では私がその傾向を持っていたので、いろいろなことを聞いた。

女子である私には関係ないが、行列字という一族が世代ごとの男子につける名前も父から聞いていた。

 
私は親族のことをあれこれ調べる際、とても便利な資料として2冊だけ手元に置いていた。
最新のものが作成されていることは聞いていたので、父が亡くなったときの身辺整理の際、残りは処分した。
日本でいえば、赤の他人の個人情報を保持するメンタリティーがないからである。
あくまでも資料として私は保持していた。

つい最近その2冊も大事な情報だけをノートに抜き書きして、処分してしまった。
 
在日の方で「自分は○○中祖から○○世だ」「ルーツは新羅の○○王」という表現を他人になさる人を見かけたことがあるが、ちょっと恥ずかしい。
「それがどうしたん?」と思える感覚の方が日本社会では健全だと思う。

といっても、在日の方ももう世代を重ねてきて、こういう朝鮮半島由来の出自を語る習慣はほとんどなくなってきていると思う。

北朝鮮では建前としては封建制度を否定しているので、こういう習慣はほとんどないと読んだことがある。

よくは知らないので断定できないけれど、韓国の伝統文化としては現代も生きているように思う。
お見合いとかで重要な情報になるのかしら? そうでもない気もする。
とにかく日本に持ち込んで他者にひけらかすことには違和感があるということである。

日本ではそういう情報に価値を置く人はほとんどいない。
 
私の名前も女子にもかかわらず記載されている。

これは韓国にいる親族が生年月日は定かでないが、名前だけは載せておきたいという配慮がなされた結果である。
 

韓国で族譜を保持して家で飾る慣習は、日本でいえば床の間の置物とか掛け軸へのこだわりと似ているように思う。または節句に飾る雛人形、鎧兜?

あくまでも保持していることに価値を置いている感じがする。

日本では15世紀までさかのぼる家系図を持っている家庭はほとんどないと思うし、先祖で社会的に出世をした人物を特別に顕彰する伝統もない。

 

最近山口県の名門の大内氏の先祖が百済の○○王だという情報を知って、その家系の辿り方が朝鮮半島の慣習に近いものを感じて、地理的になるほどありえる話だと思った。

 

むかし、たぶん私の前だからこういうことを話題にした人がいた。
九州出身の男性だったけれど、母方の先祖は庶民に一般化する以前から苗字を持つ家柄で朝鮮半島の貴族に辿れるという珍しい話を聞いた。
これぐらいしか直接人と出自に関する話題をしたことがない。

これは部落解放運動の功績だろうか?

 

こういうことがはっきりくずれるのは、やはりroyal family周辺の婚姻の時だと思う。

 

日本で儒教的慣習からほとんど自由というか放ったらかしの環境で育ったので、儒教から完全に離れてしまい、それどころか批判的な立場でもある。
族譜から抜き書きしておいた情報も、時間とともに不要のものになってしまい処分した。

個の人として生きる一歩だ。

 

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『偉大なる道』にまつわる留学いろいろ

現在の中華人民共和国の建国をになった中国共産党の中心人物たちに留学経験者が多いことは気づいていた。
本を読んでいるときにちょっと気になる人物が出てくると、ネットで調べてみたりするが、その中で「いわゆる勤工倹学でフランスへ」なんていう文面を見ることがあり、「勤工倹学」とは何だろと思ってきた。

 

1922年ぐらいにフランスへ向かった朱徳は、周恩来という青年が中国共産党支部をつくったといううわさを現地で耳にする。


「……この周恩来と、その同志たる陳毅、聶栄臻(じょうえいしん)、李立三、李富春とその夫人蔡暢らは、後日中国の歴史をつくったのである……」
とスメドレーは書いている。


彼らは、「勤工倹学」で留学していた若者のあくまでも一部であった。

この本では鄧小平は出てこないが、やはりこのころにフランスに「勤工倹学」で留学していた。

 

ちなみに、朱徳は、雲南省で高級軍人としていい給料をもらっていたときの蓄えを使って、自分のお金で留学した。
36歳という、当時の中国では中年と呼ばれる年齢での決断だった。


彼らに共通しているのは、国費でもないし、かといって一族の豊かな資産を持ち出しての優雅な留学組でもないということ。

息子や甥をなんとか国内の学校や大学へ行かせることはできても、海外へ留学させるだけの余裕はない層の出身になる。
80パーセントの農民層と数%(?)の特権階層のあいだに位置する富農、小地主、商人、知識人などの進歩的な階層と考えたらいいのかなと考えている。

岩波新書の古い『フランス勤工倹学の回想』という本を読んだことがあるが、いろいろなことがわかってくる。
「勤工倹学」の定義やいつ始まったかを説明することはむずかしい。

ただ、建国にいたる中国共産党を理解するためのキーワードのひとつであることは確かだ。

 

清朝末期、政府は日本の日清・日露戦争勝利の影響もあって近代化をいそいだ。


「当時の政府も、かなりの留学生を派遣し、主として日本にやって軍事を学ばせたが、えらばれて派遣される人の大半は、官僚か貴族の子弟であった」


朱徳雲南時代の師であり親友であった、辛亥革命で重要な働きをした蔡鍔(さいがく)将軍も、日本の士官学校軍事学を勉強した人だった。

魯迅も、この時期の国費留学生のひとりとして日本で医学を学んだことはよく知られている。


新しい思想に目覚めた青年は、自費で日本留学を実現させ、ピークは3千人ぐらいいただろうという。
この人たちは生活費をきりつめて苦学したらしいので、あくまでもこれは「倹学」。
こういう日本留学組から辛亥革命で活躍する人たちを多く輩出している。

 

朱徳が1909年ごろ入学した雲南軍官学校は、日本の士官学校などを手本にしてつくられ、教官も日本留学組が多く、そのなかに同盟会員がいた。
こういう留学組は国内の清朝打倒が目標だったし、このころは日本軍の大陸での行為もあまり目立たず、日本は進んだ国としてあこがれとともにまあまあ印象もよかったように思う。

それがどこでどうなったのか。

 

「勤工倹学」に話しを戻すと、中国建国の功労者たちは、軍事畑出身以外はほとんどヨーロッパへの留学を経験しているように見える。
唯一の例外と考えられるのは毛沢東となるから面白い。

 

第一次世界大戦が勃発して、フランスの男子はほとんどみな戦場にでていき、工場では労働力の欠乏をきたした。フランス政府は中国の人口がおおいことに目をつけて、中国へいって労働者を募集しよう、と考えた」

 

これは両政府にとって利害が一致して、各地に労働者募集所ができて、素朴な農村の若者や職人などがフランスに労働者として渡ったらしい。

こういうことを商売にする人も出てきたり、信じる主義や思惑はいろいろあったりしてややこしいが、「勤工倹学という方法によって、志ある貧困青年をあつめてフランスに留学させよう」という「一種独特の思想運動であり、救国運動でもあった」となる。


「これはいいことだ」とこの情報を得た人たちが、北京で留仏勤工倹学運動を起こすのだが、なんと若き毛沢東も、その運動の中心メンバーのひとりで、積極的に動いて青年を送りだしていた。

 

フランスまでの旅費の用意が大変だった。
東南アジアで一日一食で働いてお金をためようかとかそんなことも考えていたらしい。

なんとかフランスに着くと、とりあえず3通りの方法で勉強したことになる。
昼間勉強して夜労働するか、はじめの半年か3ヵ月は働いてお金をためて、それから学校に入って数ヵ月勉強するか、あるいは少しだけお金はあるので、ひとまず勉強し、そのうえで労働する。

官費留学生や裕福な自費留学生ではない彼らは、ひとりひとり違う苦労話があったし、共産党に加入するなどの政治意識の高揚もあったと思う。

フランスで共産党に加入した青年も多かったのではないだろうか。

ロシア革命後まもないころだった。

 

では、なぜ毛沢東は関わっていたのにフランスに行かなかったのか。

毛沢東の聞き取りを出版したエドガー・スノウがそのへんのことを聞いている。

毛沢東「自分の国についてまだ十分に知っていないし、中国に暮らすほうがいっそう有益だと感じた」と答えている。

毛沢東は行動もとる人だけれど、何より読書家でもある。
この人らしい理由だと思った。


毛沢東北京大学の図書館で司書の助手のようなことをしていた人なので、そこで相当読書をしただろうなと個人的に思ってきた。
時間と灯りが保証されたら、いくらでも読書できるという恵まれた環境にいたことになる。

彼の頭の中には読みたい文献がリストアップされていたのではないかな。

図書館で働いていたということを知って、個人的にこの大物政治思想家に親しみを感じてきた。

「同じことを考えたんじゃないかな」なんて。

 

勤工倹学を私なりにまとめると、1920年代前後、暗黒の国内の政治情勢の中で出口をもとめて、中国の中間層の20%に属する青年が、フランスで慣れない肉体労働をしながら苦学し、その中からのちに中国の歴史の1ページをつくるぐらいの政治意識の高い人材を輩出してきたとなる。

 

バブル時代のころ、豊かな奨学金を得て生活が保証されていた国費留学生を多く見てきて、うらやましいとは思ったけれど、日本政府が無駄な出費をしているとは思わなかった。
日本に好感を持つ人材を各国につくってきたのだから。
でもそろそろ海外の国が、日本からの留学生を受ける大皿を作ってくれてもよさそうな時代になってきていると残念ながら思う。

 

ただし、コロナ禍によって若者の気軽な海外渡航や留学自体が難しくなってきたので、もうしばらく我慢しないといけないけれど。

 

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『偉大なる道』にまつわる名前いろいろ

アグネス・スメドレーの『偉大なる道』は朱徳の波乱万丈の半生だけでなく、中国の封建社会での農民の暮らしぶりが細かい所まで書かれている。

中国とベルギー人とのユーラシアンだった作家ハン・スーインは朱徳と同じ四川省の生まれだが、何代も前から読書人階級として暮らしてきた一族なので、彼女の自伝では特権階級の暮らしぶりが書かれている所が興味深かった。

それに比べると、朱徳の生まれた家の暮らしのつつましさには驚くことが多かった。

 

この本は中国だけでなく東アジアの封建社会での民衆の習俗を考える材料も提供してくれた感じがする。

 

たとえば、男子の名前について考えてみると……。

 

現在の韓国では、一族の男子の世代ごとに行列字を設定して名前の一字に使い、どの世代に属する人間かわかるようにする慣習を残していることが少なくない。

この行列字は十数世代分が決められているので次の世代はどの漢字になるかはわかっている。

干支の漢字の並びのように伝わっていると考えている。

ただ、現在の韓国では実際のところはどの程度の割合になるのは私はわからない。

 

韓国の前大統領朴槿恵氏の父親の元大統領朴正煕の名前は正か煕という漢字が行列字になる。

今までの見識では、行列字は必ずしも最初の漢字とは決まっていないようだ。
仮に正という漢字が行列字とすれば、朴正煕の同じ派に属する一族で従兄弟を含めた横広がりの同世代の男子は朴正◯という名前になっているはずだ。

そうなるとただでさへ「朴、金、李」という姓が多いのに、さらに行列字で名前の一文字が決められてしまうと、韓国は男子については同姓同名が多く存在する社会になる。

実際、族譜をぺらぺらめくっていたときにも同姓同名を目にすることが多かった。

たまに日本でも全く同じ名前の人が存在することはあるが、韓国のほうがはるかに多いという実感をもっている。

 

ただ、はっきり言えることは、行列字が厳格に保持されている一族であるからといって、日本語の「名門」に似た雰囲気を必ずしも感じ取る必要はない。

 

作家ハン・スーインの生まれた家は何代も前から商売に成功し、息子たちは学問を身に付け、一族のものは労働をする必要がなかった。

家の中の雑用は使用人がするので、女たちも日中から卓を囲んで麻雀をするなど家事労働を一切しなくても生活はまわっていったという。

 

この作家の自伝を読んでいたときに、韓国の行列字に相当するものがさりげなく書かれている箇所があり感動した覚えがある。

韓国での行列字に相当するものを中国では輩字と呼ぶらしい。

別の呼び方もあるかも知れない。

当然これは中国大陸から朝鮮半島に伝わったものだろう。

ハン・スーインは一族を語るときに、曽祖父の世代から父親の世代の輩字について、家族を語る必要な情報として何のてらいもなく紹介していた。

 

個人的に韓国の行列字は身近に感じて調べたことがあるので、「あ、一緒だわ」なんて思いながらこのあたりはすーっと入っていけた。

ハン・スーインの家は特権階級なので、輩字や行列字を保持してきた一族は名門であることの条件の一つかなと密かに思ったものだった。

 

ところが、『偉大なる道』では朱徳も祖父や父や自分の輩字を名前に関する必要な情報として語っている。

具体的には朱徳の長兄の名前はタイ・リーで、次兄はタイ・フォンそして朱徳はタイ・チェンで、タイが輩字で従兄弟たちも同じようにタイがつくはずだ。

どういう漢字かは説明されていないが、優雅な意味が付与されているのだろう。

ただ朱徳の家は貧農で、字が読めた人は一族にいなかったので、この輩字の情報は音と意味だけで伝承されてきたことになる。

 

何代にもわたって重労働の農作業を繰り返してきて、誰ひとり文字も読めなかった朱徳の一族にも先祖代々輩字が伝わっていることが意外だった。

朱徳の家は客家で、原籍は広東省であり、さらにさかのぼると黄河流域あたりから集団移動してきたことがわかっている。

韓国での行列字と朱徳の家に伝わった輩字は同じ源流と考えていいのではないか。

 

日本ではどうだろうか。

個人的な見識では、こういう慣習は日本にはまったくない。
男系の血縁集団を表す姓と家の名前になる苗字との違いも関連してるのかな。

他の東アジアのように姓が一般に普及しなかったのが不思議だし、このことは日本の独自性のひとつだと思う。

日本では両親のどちらかの名前の一文字を子につけることはよく目にするし、そうしたい気持ちもわかる。

 

現在の中国では輩字を使用する慣習はどの程度残されているのかな。

『偉大なる道』に書かれているように、封建社会を一変させる大嵐のような出来事がすべてをひっくり返したことになっている。

朱徳も息子の名前を名付けるときまったく輩字から自由だったように読み取れた。

 

北朝鮮についてはよくわからないが、金日成金正日金正恩の三代の名前を並べれば行列字から自由になっているように見える。

繰り返しになるが、韓国ではまだこの行列字を保持する集団は存在するはず。

少子化、男女同権意識、キリスト教思想の普及などの外因で薄れてきてはいると思うが、社会の根底から払拭しようという動機がなかったからだと思う。

ただ、決して悪いものではないし、個人的にはいわゆるキラキラネームよりははるかにいいものだと考えている。

 

別に行列字があっても不都合はないし、一族にあっては優雅で誇り高い気分をもたらしてくれるものだが、女性は排除されているので、遅かれ早かれ時代の遺物になっていくことは間違いない。

おそらく発祥の地であった中国ではほとんど廃れたものが、韓国社会ではまだ生きているという構造になっているように感じる。

一度中国の識者にこのあたりのことをぜひ聞いてみたい。

 

それと、建国前の中国では、姓は男系を表しているので神聖なもので不変だが、名前に関してはそうではないようだ。

日本でも幼少名とか字(あざな)とかひと昔前にはあったように。

幼い時の名前とは別に、学校に入学したときとか科挙に合格したときなど、人生の節目に心機一転を期して名前を変えてきたような記述が目に付く。
日本でいう戸籍名のような「本当の名前」という意識はあったのかな? 
実際、朱徳という名前も軍官学校に入学したときに自分でつけた名前だ!

科挙に合格したときは恩師につけてもらっている。

 

孫文孫逸仙とか孫中山とかいろいろあって、調べものをするときはややこしい。

 

そういう伝統があるから、香港を始め、中国の都市部に住む若者が西洋の名前も持つことが多いし抵抗もないのかな。

日本でいうニックネームやネット上のハンドルネームとは違う独特の格式を持っている感じが

する。

アグネス、ジャッキー、テレサ、ブルースなどなど。

 

見識不足で断定できないが、こういう節目に名前を変えることも封建社会の名残なので、現代の中国にはないと思っている。

韓国にもないと思う。

過去を清算したいという動機以外、現代社会で名前を変えることに利点はないと思う。

 

でも、ひょっとしたら、生涯にわたって本名は一字たりとも不変と捉えていることは世界的には少数かも知れないとも思ったりしている。

混乱してきた。

 

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『偉大なる道』にまつわる言語いろいろ

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中国が多言語国家であることに気づくまで、日本は日本語を母語にする人々の国であり、韓国は韓国語を母語にし、中国は中国語を母語にする人たちの国だと漠然と捉えていたように思う。

 

ところが、アジアのことをいろいろ知るようになって、学校教育を受けた中国人は、中国語とは別の地域ごとの言語を母語にしているバイリンガルであることを知ったときは、英語コンプレックスを持っていたこともあって驚いたものだった。

他の国では単なる方言にすぎないものを言語といってるのかな。

それと、地域ごとの言語がどれほどの違いがあるのだろうか。

これはいまだによくわからないままだ。

 

「日本語と沖縄の言葉を話せます」
「日本語と大阪の言葉がわかります。あと京都の言葉も少し」なんていう日本人はほとんどいないと思うので、単なる方言ではないことは理解している。

実際に、中国の漢民族でお互いの母語で話している人たちの会話は母語が違う人にはまったくわからないことは見聞で知っている。

日本のビジネスマンが、中国でのビジネスでは中国語だけでなくその地域の母語も理解できないとやりにくいと語るのを聞いたこともある。

個人的に同じように、九州のある地方で年配の女の人たちが早口でいわゆる世間話をしている場に居合わせたときに全く理解できなかった経験があるが、これとは質が違う感じがする。

方言と言語の違いにまで発展しそうでここまで。

 

やはり「日本語と英語が話せます」に等しい能力かな。

 

アジア図書館でむかし接した中国人は、中国語とは別にモンゴル語、Korean、客家語、広東語、台湾語などを母語にしていた。

話したことのある中国系フィリピン人はフィリピン語とは別に福建語がわかる、といっていた。
さすがに中国語は習得する機会はなかったと思うが、英語はできたはずだ。

インドも中国に似たような言語情況がある。

 

多少の違いはあっても同じアルファベットを使っているヨーロッパで考えてみれば、例えばドイツ人とスペイン人は互いの母語はまったくわからない。
フランス語と英語は別言語だ。

ヨーロッパと中国の領土はあまり変わらないように見えるので、中国で北方の言語と広東などの南方の言語が別言語と言われたら、納得できそうだ。

中国は、建国後本格的にそれぞれの地域の母語とは別に中国語という標準語を教育を通じて普及させたので、中国人どおしの意思疎通は困らない。

この事実は中国共産党の功績のひとつと私はみている。

これは一党だけで国を治めているのでやりやすかったこともあるし、悲惨な経験をへて、新しい国を創るということで官民の情熱をまとめ上げることでやれたと考えている。

ヨーロッパでもかつてのエスペラントという人工言語を普及させる運動があったけれど、無理な話でもなかったのかなと思ったりするが、平和な時代の個性豊かな国どおしの話し合いで達成できることではない。

とにかく、それぞれの地域の母語と共通言語を学習できる環境はいいものだと思っている。

 

話を戻すと、日本と韓国のような少数の国を除けば、アジアで少なくとも大学教育を受けた人たちは言語に関しては複数の言語理解者だ。

英語を「ご主人さまの言語」と捉える時代はもうとっくに終わっている。

 

英語学習の環境はひと昔前に比べると飛躍的に発展してきたが、まだまだ日本人が日本国内でバイリンガルに近いレベルにもっていくのはむずかしいと感じている。

因みに、日本でバイリンガルを育てている教育機関はKoreanとChineseの民族学校だと思う。あとInternational Schoolも?

好き嫌いがあると思うが、言語習得の面だけを考えたら、ユニークな教育環境にある。

もちろん日本語教育も時間数の配分はよく知らないがきちんとしている。

 

『偉大なる道』では朱徳は自らの言語環境についても語っていて、そこが多言語社会に生きる中国人らしいと思う。

朱徳の一族は、何代も前に南部の広東から移住してきた人たちで客家であった。
1886年生まれの朱徳は、自分たちの親の世代までは広東で使っていた客家語を使っていたが、朱徳の世代になって、客家語と四川の言葉を両方あやつれるようになった、という。

 

1916年生まれの作家ハン・スーインも四川省の生まれだが、伝記の中で客家語は自分たちの親の世代あたりで使われなくなった、と書いていた。
こういうことを語るところがなんとも中国らしい。

 

太平天国の乱の指導者や兵士たちは客家が多かったので、彼らの母語客家語だった。

広東出身の孫逸仙四川省出身の朱徳をはじめとする鄧小平や陳毅など有名無名の建国の功労者たちの多くは、客家語か四川語を母語とする人たちだった。

当然のことだが、湖南省出身の毛沢東四川省出身の同志たちが話している会話はわからなかったと推測できる。

なお、現在客家語の推定使用者は5500万人ほどらしく、客家を自称する人たちのおおよそ半分ぐらいになる。

広東など中国南部や台湾、海外の華僑たちの住む地域で残されていることが多いらしい。

 

あと、香港で話されることが多い広東語も独特の世界観をもっている。

 

アジアの言語のことを考えていると、迷路にはまったような感じになるのでここで終える。

 

『偉大なる道』では、朱徳の言語に関して言文一致運動の影響についても少しふれている。
朱徳科挙に合格した知識人として、中国の古典語である「文理」の読み書きができた。

1910年代あたりでこの「文理」を排除する言文一致運動が起こり、当時知識人であった若者の多くはこの影響を受けて、型にはまらないやさしい話し言葉を習得していった。


朱徳四川省で軍人として挫折の日々をおくっていて、この流れに加わることができず、ずっと後になって「文理」に代わる新たな言語を努力して獲得したと書いてある。

このことは朱徳のコンプレックスのひとつになっていたようだ。

 

一般的に、中国人は異なる言語が混在する環境に慣れているような気がする。

 

 

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