Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

柳田國男の『遠野物語』にふれて

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ちょっとゆっくりできる冬がすぎて春になると、畑での作業も増えて、わずか数時間戸外ですごしただけで、自宅で回復するまでに時間がかかるようになってきた。

 

自宅ではごろんと横になってネットで情報を読んだり、耳元でラジオを聴く時間も増えてきた。

 

そんなときに偶然見つけた番組だった。


NHKラジオの聴き逃しコーナーから入って「カルチャーラジオ 文学の世界」に入っていくと“遠野物語”読みとくという題で民俗学者の方が初心者にもわかりやすく解説してくれていた。

 

はまってしまった。自分はこういうジャンルが好きなんだと気づいた。

 

柳田國男遠野物語という言葉は知っていたけれど、どういうものか接する機会がなかった。

アジアをキーワードにして知識を深めていた頃にも、日本列島の「うち」に興味関心を向ける機会がほとんどなかったからだと思う。

しかしアジア図書館にはこのあたりの蔵書も多いはず。

 

柳田國男は、歴史上「あったことをなかったことにすることはできない」という研究者としての態度や山の民、山びとへのやさしい語り口から人間性が高い人だと思う。

そしてはるか昔に後からやってきた民と先に住んでいた民との衝突や婚姻などを通じて日本列島に住む民の血に両者の血が混ざりあい、そしてその事実は日本列島に住む民の文化を豊かにしたと捉えている。

にわか知識を得た私の解釈ではこうなる。
多文化・多民族社会のあり方を考えるさきがけのような研究者だ。

このあたりに民俗学のロマンを感じた。

 

遠野物語は1910年(明治43年)に出版されたもの。

 

近代日本がアジアなどを巻き込んで領土拡大、戦争の道に入っていったころで、柳田の主張が微妙に表舞台では受け入れがたかったことは想像できる。

 

なお、番組は30分で現在第8回まで聴ける。

 

柳田國男と“遠野物語”」

「跋扈(ばっこ)する妖怪たち」

異世界の住人たち」

「動物たちの物語」

 

これから始まる「神々の来歴」「日本人とは何か」も楽しみだ。

「日本人とは何か」がクライマックスだろうか。

 

肩の力を抜いて、「単一民族国家論」云々を凌駕するような日本列島の歴史のロマンに触れてみるのもいいのではないかと思っている。

『キューポラのある街』を久しぶりに鑑賞

1年前『キューポラのある街』をテレビでやっていることがわかり久しぶりに観た。
数十年ぶりなので、あらためて知ることもあり、思わず涙ぐんでしまったり、おかしくて苦笑いしたり最後まで楽しんだ。

 

吉永小百合さんがほんとにいい俳優だということを再認識。
ほかにも助演女優男優賞をそれぞれさしあげたいような脇を固める名役者がたくさん出ていて、昭和の工業地域の下町の雰囲気を残す貴重な映画だと思った。
演じた俳優たちがほとんど亡くなっていることを考えるとなおさらだ。

 

それと北朝鮮へ帰国する友との友情や、子どもや大人たちのそれなりの露骨な差別感情をともなった「朝鮮」「朝鮮人」ということばもストレートに出てくる。

もう死語になった「北鮮」という言葉が、この帰国事業のためにしばらく新たな使命を得て息を吹き返したという自論を再確認した。

 

今回とくに印象に残ったのは、職人気質の主人公の父親の、時代の波を受けて機械化されていった現場へのかたくなな拒否感情だった。
労働者とか労働組合ということばもよく出てきた。
日本の労働組合の高揚期の一側面を切り取ったような映画で、それはそれで時代の記録になっている。

イタリア映画の「鉄道員」と重なる部分も見つけた感じ。

 

ショッキングなシーンもあった。
主人公が若い男たちに睡眠薬(?)入りのビールを飲まされて、意識が朦朧としているなかで輪姦されそうになった。
今も同様なことはあり、犯罪の手口としては古くからあったということらしい。
被害者多かったのだろう。

 

アジア図書館の蔵書として過去に紹介した記事。

 

fareast2040.hatenablog.com

 

 アジア図書館で実際に個人的にきいた話しで、主人公のやんちゃな弟タカユキが子分に見送られて帰国したと考えられる事例。

 

fareast2040.hatenablog.com

 

歳をとって涙もろくなってきたかもしれない。
一番感動したシーンは、主人公の友人(15歳前後?)が一緒に帰国しないことにした日本人のお母さんに弟の帰国への気持ちがぐらつくから会うのをやめてくれと頼むところ。
演技がうまいわ。
いろいろな家族の事情があったのだろう。
Koreanが話せない彼女は、帰国後言葉の壁にぶつかって努力したのだろうなとかいろいろ考えさせてくれる。

 

帰国事業そのものの是非は当時と今では情報量もちがい、今だからいえることだと思っている。戦後のイスラエル国家建設に関するユダヤ人の帰国事業からいい(?)影響を受けているようにも感じた。
北朝鮮は別の民族が住んでいた地ではなかったので、さらにスムーズにいった感じ。

 

最後、主人公が橋の上を思いっきり駆け抜けていくシーン。
吉永小百合さんの健康的な走り方が束縛されない自由を表現しているような感じがしてさわやかだった。

貧しいけれど、働きながら夜間高校で学び、自分のまわりの社会の矛盾や物事を考えて、自分の考えをもった大人になっていきたいという自立宣言ととった。

 

昭和の社会派映画の名作のひとつにあげたい作品だ。

友情と擬似家族をえがく韓国ドラマ「黄金時代」

十数年前の韓国ドラマ「黄金時代」は友情と擬似家族もテーマにしているように私は見えた。
日本以上に家族や一族意識の強い儒教伝統社会において、親以外の血縁がほとんど出てこなかったことが印象深い。

焦点をしぼるために、あえて主人公たちをみな一人っ子にしたのではないかとさへ推測している。

特に上層階級のチェフンも婚約者も兄弟姉妹の存在がドラマの中ではまったくなかったので、一人っ子のように見えたが、現実ではありえない。
銀行の資産を巡る攻防を描いているので、普通は兄弟や従兄弟等々何らかの一族が出てくるものだと思うが。

別に韓国だけのことではないが、お金があるところにはいろいろな親族が集まってくるものだと思う。


そのあたりの確執がまったくなかったので、このドラマは血縁関係とは別の世界で、純粋な信頼にもとづく人間関係を描くことに成功しているように思えた。

 

また最終話まで飽きずに観れたのは、民族系銀行の頭取であった父を殺害されて孤児になったヒギョンが、恵まれない境遇の中でけなげに生きていく姿への好感と、ヒギョンが誰と最後は結ばれるかという好奇心のためだった。

婚約者のいるチェフンだったが、カンチョル同様、ヒギョンの近くで好青年として存在していたからだった。
さらにドラマはややこしくて、ヒギョンの父親の殺害に関わっているのが、チェフンとカンチョルの父親だった。

チェフンの父親は上昇志向型人間ゆえの野心と野望があった。
カンチョルの父親は誠実だが貧しい境遇ゆえに持つ「弱さ」があった。
チェフンとカンチョルはそれぞれの親の動機を知った。どうなるか?
―うーん
想像していなかったけれど、結末には納得できた。

時間の余裕ができたら、韓国語の勉強を兼ねて、もう一度主人公たちに会いたいと思わせる作品だった。

韓国ドラマ「黄金時代」を観て戦中の徴兵制を考えた

十数年前にみた韓国ドラマ「黄金時代」は戦中のことを考えさせてくれた。

ドラマは民族系銀行の内紛の周辺を描いているので、戦時色はあまり出ていなかった。

本土とは違い、朝鮮半島には空襲もなかったし、強い思想統制もあったので、表面的にはのんびりしていたように想像する。

日帝」への反発は中国大陸や「地下」で生きるしかない時代だった。


しかし、朝鮮半島で戦中末期に実施された徴兵制について考える瞬間があった。
実業学校の教師をしているカンチョルが、自分の教え子を戦地に送りたくないということで、友人のチェフンに銀行で採用してくれるよう頼んでいたシーンがあった。
銀行員になれば、「徴兵免除」を受けることがわかった。

南大門市場や町を行きかう民衆に若い人がほとんど見られなかったが、実際もそうだったと思う。
若い世代は徴兵免除を受けているか、伝染性の病気を持っているかのどちらかでなければ、徴兵で戦地か、徴用のために日本本土の軍需産業の現場や戦地に強制的(または仕方なしに)に連れて行かれているはず。
それがいやだったら、「逃げる」という道しか残されていなかっただろう。

カンチョルは教師から銀行員になったのだが、教師のままだったら「徴用」の対象になっていた可能性はあると思った。
そういう意味でカンチョルとずっと一緒にいた友人が、ぶらぶらすごしているのが不自然に見えた。

孤児だから対象からもれたと考えたらいいのだろうか。

この時期の日本の戦局はかなり悪く、兵が絶対的に不足していた。

学徒出陣という名で学業半ばの学生も戦地に行く時代だった。
朝鮮半島にいる45歳以下の健康な日本男子も、いつでも戦地に行く覚悟は持っていたようだ。

『慶州は母の呼び声』(森崎和江著)より

 

「秋になりイタリアの降伏が伝えられ、兵役法がかわったとかで父が20数年前の奉公袋を出した。父もいつ召集されるかわからないことになったという。南方の島々に次々と米軍が上陸する。そして、10月、朝鮮海峡を往来して釜山と下関とを結んでいた連絡船の崑崙丸が、アメリカの潜水艦によって撃沈された。」

 

イタリアの降伏は1943年の9月のことで、奉公袋は遺書や連絡先を書いたものを入れた袋で戦地に持っていくものだった。

著者の父親は40歳前後と推測される。

こういう人が徴兵免除されないのだから、かなり兵力が不足していたと想像できる。

確かこの頃松本清張ニューギニア戦線の補充兵として運悪く召集され、兵団を編成するために朝鮮半島にいたのだが、30歳前半で妻子ある身だった。

決して若くない年齢なので、自伝では町内の誰かの心証を悪くしたためではないかというようなことが書かれていた記憶がある。
幸い戦地ではなく、朝鮮半島終戦を迎え無事に妻子の元に戻ることができた。

この人が戦死していたら、戦後の文学界違っていたと思う。

 

松本清張は、朝鮮戦争後スパイとして北朝鮮で裁判をかけられ亡くなった詩人林和(イムファ)のことをきめ細やかに描写した『北の詩人』を書いている。

結核を病んだ繊細なこの詩人が、生活苦の中で、宣教師から特効薬とか栄養のある食物との交換条件でズルズル関係を深めていく苦悩が、松本清張独特の想像力でリアルに描かれていく。

 

亡くなった父もこの本を読んで感銘受けていたのだが、中でも米兵の描写が自分の実際観た感じとまったくいっしょだったことに驚いていた。

たとえば米兵の髭を剃り上げた顎あたりの色が緑色に見えたとか、履いていたズボンがぴしっとプレスされていたので、折り目が剃刀の刃のように見えたとか。

父は松本清張の自伝までは読んでいなかった。

この作家がもし朝鮮半島ですごす時期がなかったら、『北の詩人』は書けていなかったのではないかと思う。

 

ずっと以前、文学に詳しい韓国人留学生に林和のことについて訊いたことがある。
彼女の肯定する返事とそのときの暗い顔つきをまだ覚えている。

時代に翻弄された線の細い林和のことを考えると、人間の弱さを思い切ない気持ちになる。

 

さて話をもとに戻すと、朝鮮半島にいた父も「徴兵免除」をもらっていたが、徴兵検査は対象年齢の若者として受けた。

ところが自覚症状はないのに「結核」にかかっていることがわかり、「不合格」という結果をもらっている。
当時の「結核」は「死の宣告」を意味したが、それでも「合格」した若者から「不合格」をうらやましがられたということだった。

現地ではなんとかわが息子も徴兵免除を受けさせたいと、父のポジションである農業技手になんとかならせようと努力していた金持ちの人がいたと聞いている。

 

例外もあったことは承知しているが、あの時代においては徴兵や徴用を避けたいと思うのが普通の感覚だったと思う。

日韓併合時代をえがく韓国ドラマ「黄金時代」

もう十数年前に観たドラマだったけれど、とてもおもしろかった。

きっかけは、ネット上で日韓併合時の朝鮮半島や日本本土が描かれている珍しいドラマと知ったからだった。
途中で挫折した「チャングムの誓い」と違い、全20話とそんなに長くないので、とりあえず1巻借りてみた。
「はまる」とはこういうことかと自覚しながら、とうとう最終話まで観た。

友人にもすすめると、いいものを紹介してくれたと当時感謝された。


1927年、釜山から日本に向かう船の中で出会った同い年のクァンチョルとジェフンは、身分の差を越えた友情を育んでいた。しかしそんな2人を快く思わないジェフンの父親ヨンホにより、いつしか2人の仲は引き裂かれてしまう・・・。父親のジンテが京城銀行頭取のビョンイクを殺害する事件を目撃してしまったクァンチョルは、長年そのことで苦しむが、皮肉にも彼の娘であるヒギョンをやがて愛するようになる。10数年後、それぞれの道を歩んでいたクァンチョルとジェフンに、感動の再会が訪れるが・・・。(韓国ドラマ「黄金時代」オフィシャルサイトから抜粋)

 

よくできたドラマだと思った。

ちょっと原罪をテーマにした三浦綾子の『氷点』や松本清張の小説と重なる雰囲気をもっていると思った。

人間は生きているかぎり、その時代の社会的、歴史的な事柄に影響を受けているのだから、こういう背景を抜きにしたドラマは、私には物足りなくて楽しめない。

このドラマを通じて、社会的、歴史的な背景のもとに繰り広げられる人間ドラマが好きなんだという自分の趣向を再発見した。

 

このドラマは韓国は2000年から2001年にテレビで放映され、高い視聴率を取ったという。
私の周辺でもかなり高齢女性のファンが多かった『冬のソナタ』の前年の作品だ。

日本では『冬のソナタ』はかなり評判がよかったらしいが、私は見ていない。

このドラマには、たとえば瓜二つの別人が出てくるというようなありえないことがよく起こると聞いていたし、子育てで一番大変な時期でもあって、結局見る機会がなかった。

題名からかなり甘そうだなとは思ってきたが。

 

さて、この「黄金時代」では関釜連絡船は出てくるし、釜山港下関港の光景、在日一世の原型のような男、戦中の様子を観ていると、いろいろ考えさせられることが多かった。

完全に「時代考証」されているとはいえないにしても、私がそれまで写真や残された記録だけで築いているイメージよりはるかにリアルに展開してくれた。

釜山港のチケット売り場とか関釜連絡船の船底の様子とか。

かわいい子役たちの演技もうまい。
出身階層が違うチェフンもカンチョルもどっちも味わいがあってよかった。
特に、カンチョルにはあの服装のまま家に来てもらって、ごはんをいっぱい食べさせてあげて、「おばあさん、おいしいよ」といってもらいたい妄想の世界に入っていきそう。

ああいう子役に弱いことも自覚している。

韓国女性が陰の主人公を演じているのだが、控えめで情熱的な演技に惹かれるものがあった。
「あんなとこで写真を拾うかな」とか、「あんなとこで会うかな」というようなシーンもあるし、冷静に考えたらありえない話なのだが、感情移入しているうちに、絡み合いそうにない登場人物達が、いつのまにか自然に絡み合っていることに気がつく。
そんなドラマだった。

 

 

韓国ドラマ「黄金時代」を観て日本語とKoreanを考えた

10年ほど前、韓国ドラマ「黄金時代」を興味深く観た。

かわいい子役の主人公たちはやがて青年になり、戦中の朝鮮半島が舞台になったので、当時の日本語と朝鮮語の使用について考えてみた。

植民地時代だからといって、朝鮮半島は一様な日本語使用社会ではない。
ドラマでも町の看板を始めとする印刷物は漢字、ひらがな、ハングルが混在していた。
慣れるまでちょっとおかしかったが、登場人物は、ドラマなので日本人役の俳優もみな韓国語を喋っていた。

実際は、日本人同士は日本語、Korean同士はKoreanのはず。
では、日本人とKoreanが出会う場ではどうだったろか。
朝鮮半島が併合された初期のころは通訳が活躍したと思う。

 

植民者二世として朝鮮半島で生まれ育った作家森崎和江著『慶州は母の呼び声』によると、

 

「わたしの父は大邱公立高等普通学校、つまり朝鮮人の少年たちの五年制の中学校に勤めていたのだ。朝鮮人は家庭では朝鮮語であったが、併合後は国語は日本語ということになり、生徒たちは国語として日本語を学習した。普通学校の入学率は低かったが、学校では朝鮮語のほかに日本語を学び、高等普通学校の受験を志す子は日本人の子らとかわらぬ理解力を日本語にも示した」

 

教育を受けた若者になったチェフンもカンチョルもバイリンガルだった。

銀行の頭取になったチェフンが総督府に出向くシーンがあったが、流暢な日本語で交渉できたのだと想像する。

Koreanは、教育を受けてバイリンガルになれるいうことをこの時代に経験している。

 

さらに森崎和江さんの著作によると、

 

「わたしの父は、他の日本人教師と同じように朝鮮語を使えなかった。総督府では官庁の職員に朝鮮語の習得を奨励していた。その試験の合格者には手当を給付した。公用語は日本語だったが、都市部はともあれ、村に入ると必要だったから朝鮮語を話す役人や警察官はすくなくないのだった。」

 

ところが、1938年の第三次教育令で随意科目になり、しだいに教育現場から「朝鮮語」は排除されていったという。
しかし農村部やKorean同士や家庭の中では当然のことながら、Koreanで話していた。

亡くなった亡父も農村部の面事務所(日本でいう村役場)で働く下級官吏だったが、農家をまわるときはKoreanを話せないので、日当で通訳を雇っていたという。

「学校でうっかりしてKoreanを話したら、先生から怒られたり、「ごめんなさい」と謝らされたりした」という内容で思い出を語る韓国にいる遠縁の親族を数人知っている。

こういう風景は沖縄で日本語を普及していくときにも一時見られたという文章をどこかで読んだ。東南アジアでもそうだったかも知れない。

戦中は公教育の現場や官公庁においては日本語使用が徹底されていった時代だった。
理由はなんだろうか。Koreanの学習時間が国語の学習の妨げにはなっていないと思うが。どう考えてもバイリンガルの人間や社会への圧力と写る。

森崎和江さんのお父さんが戦後日本に引き上げてきてまもない頃、自分の教え子たちが一人でものを考えるときも日本語だということを気にかけて、泣いていたという思い出も読んだことがある。

私はバイリンガルでないので、ものを考えるときの言語の選択がどんなものかよくわからない。

学校で習った主たる言語がものを考えるときの言語になるのかな。


話がそれてしまうが、1942年10月に朝鮮語学会事件というのが起こった。詳しく語る見識はないが、ハングルを保存していこうとする学者たちの集まりだった朝鮮語学会の主要メンバーが、別件で治安維持法違反で逮捕されるという事件だった。

8月15日の解放後、「地下」でしか行動がとれなかった学者たちが一斉に表に出てきて、まずハングルを教えないといけないということで、にわかに講習会のようなものが開かれたらしい。

亡父も、そのような場で子どもがひらがなを学ぶようにハングルを習ったらしい。

「そのへんの先生ちゃう。えらい学者に教えてもらった」と語っていた記憶がある。

 

で、なぜ戦中こんなふうに朝鮮語使用を弾圧したかだが、私はやはり戦力不足を補うために実施された朝鮮半島での「徴兵制」が関係しているように、ドラマを観て改めて思った。


これはKoreanにしてみれば、負の記憶として残ってきたと思う。

森崎和江さんが語る植民者二世の日本語と母語

女性史の在野の研究家でもある作家森崎和江さんの父親は、日韓併合後の朝鮮半島で現地Koreanの五年生の中学校である高等普通学校の教師だった。

この普通ということばがつくと現地Koreanの学校になる。

森崎さんは1927年に朝鮮半島で生まれたのだが、ご自分の植民地体験を客観するために回想記『慶州は母の呼び声』(ちくま文庫)を書いた。

この本は個人的にとても味わいがある作品だった。

序章より

……わたしが生まれた大邱は今日の韓国の、慶尚北道大邱市である。町名の三笠町というのは植民者である日本人が名付けたのだと思う。旧市街の中の日本人住宅地の一角であり、わたしはここに産院をひらいていた日本人医師の産室で助産婦によってとりあげられた。
 三笠町という町名が生まれ、消え去ったように、他民族を侵しつつ暮らした日本人町は、いや、わたしの過ぎし日の町は今は地上にない。

 

日本人町は内地日本での故郷を異にする人びとが永住目的で新たに築いたコミュニティだった。

公務員は外地手当がつくので、ここでの暮らしはかなり豊かだったことが書かれている。
普通の家庭でお手伝いさんがいて、夏にはプールへ行ったとか、進学するために福岡に戻ったとき、農作業を日本人がしていることにびっくりしたとか。

このようにこの著作は私にとって興味深い記述が多いのだが、当時森崎さんが使っていた日本語のことに触れているところもその一つになっている。

運動会のシーンより

「先生はほとんど日本人であり、日本語で号令をかける。生徒たちの掛け声も日本語である。普通学校時代に習得してきているので、わたしたちとかわらない。わたしら植民者の子どもたちは朝鮮人の子どもたちが学校で習う日本語と同じことばを使った。それは方言のない学習用語で、標準語と言っていた。家庭でもそれを使った。
 余談めくが、敗戦後二十余年ぶりに韓国で旧友に会った時、その日本語が昔のままに、なんのなまりもないことに激しいめまいを覚えた。日本に帰って来て、その日本語と同じことばを耳にしなくなっていた。地方はもとよりのこと、東京語も、そして共通語にも地域ごとのなまりがあったから、わたしは亡霊となった自分に出会った気がした。」


父と同じ1925年生まれの金大中も流暢な日本語を話していたが、こんな日本語だったと想像する。

どうしても韓国人独特の発音上の限界は残っただろうが、日本語としてはていねいな響きを持っていたと思う。

1917年生まれの元韓国大統領パクチョンヒをはじめとする同年代の学校教育を受けた韓国人もていねいな日本語を話していたはず。

但し家庭では日本語なんて使わない。

そこが森崎和江さんのような日本人との違いである。

今風にいえば、バイリンガル

 

亡父も考えてみれば、ていねいなひびきを持つ標準語を話していたように思う。
両親が朝鮮半島出身者だったので、家庭の中ではKoreanが中心だったと思うが、亡父はなんとなく話している会話は聞き取れても話すことはできなかった。

両親は生活を維持することに必死だったろうから、子どもに母語を残す余裕もなかった。

 

話が少しずれるが、妹は結婚して英国にいるが、息子には日本語を残したかったので、小さい頃は家庭では努めて日本語で話すようにしていた。

ところが一日中忙しく働いていたりして、親の方に余裕がなくなり、とうとう日本語は話せなくなってしまったという。

現在は息子の方が母親と日本語で会話したいという理由で日本語を勉強している。

 

母語についてほぼ真っ白な子どもに異国で母語を残していく作業は、よほど生活に余裕がなければむずかしいものだと思っている。

 

というわけで、森崎さんの著書から日韓併合時代、朝鮮半島の教育現場・官公庁、日本人の家庭では方言のない学習用語である日本語が話されていたというなかなか知りえない事実を知った。