Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

『偉大なる道』にまつわる客家(ハッカ)いろいろ

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客家(ハッカ)いう言葉は、アジア図書館に勤めていたころ初めて聞いた。 

それ以来何だろうとずっと気にはなっていた。

どうやら中国の歴史において、被差別者集団として扱われた時期があったらしいと知ってなおさらだった。

 

台湾出身の女性留学生に講演してもらったときにきいた「私も客家です」という表現が耳に残っていて、こういう風に自分を語る情報の一つでもあることを知った。

といっても、講演の参加者が「今でも台湾では客家は差別されているのか」と質問したので、理知的な彼女が冷静に受け答えする中で出てきた表現だった。

とにかくこのいい方から、彼女は台湾人だけれども、実は大陸にルーツがあり、客家語母語かも知れないことが想像できた。

 

四川省で生まれた作家ハン・スーインの一族も客家だった。

彼女は、読書人階級だったおかげで、文字で残されていた一族の膨大な資料を読み込んで、客家とはどういう集団であるかを自伝の中でかなりのページをさいて説明していた。

こういう試みは彼女だけではなくて、アジア図書館には客家について書かれた日本語中国語の本が、一つのコーナーができるぐらい数多く所蔵されていた。

 

同じ漢民族ではあるが、集団で中国国内を大移動してきた人たちといわれている。

中原呼ばれた古代王朝の中心地である黄河中流周辺地域から、自然災害や戦乱に追われて南方に移ったと伝えられ、主に広東、福建、江西省の境界の山岳地に住んだといわれている。

中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類されていて、最初が秦の時代といわれているので紀元前となる。

移動の規模は単なる村単位ではなくて、ハン・スーインの自伝では、確かイングランドスコットランドぐらいの土地の面積からの人口移動になるという。

中国らしいスケールの大きさを感じる。

しかも現在客家を自称する人は1億を越えるというから、一つの国と考えてもよさそうだ。

 

客家の人々はその土地においてよそ者なので、当然周辺に住む他の集団とは異なり、山間部に好んでというか仕方なく居住することが多く、独特の言語・文化を保ってきた。

客家の典型的な住居は、何家族も一緒に住む丸い家で、観光地になっていることがある。

なぜ丸いかといえば、外部から攻撃してくる者の侵入を防ぎやすいからだ。

戦略上の円陣を組むという感じかな。

 

さらに何世紀も経ると、広東、福建、江西省にいったん定着した集団から内陸部の四川省に移動する人たちが出てきた。

ハン・スーインの一族で最初に四川省に来た先祖は、貧しい塩の行商人だったが、世代を重ねていく間に富を蓄え、学問を身につけていき、やがて読書人階級を形成するまでになったという。

もちろん移動するのは本家ではなくて分家で、長男ではないことは容易に想像できる。

四川省出身の政治家や朱徳の配下にいた陳毅も、似たような階級形成の歴史をもつ一族と思われる。

 

朱徳の一族も、広東省に本家がある客家なので、次のように『偉大なる道』には書かれている。

 

「……彼らは他地方から移住してきたのであり、まだ八代と経ってはおらず、従ってはえぬきの人または郷土創建の家系ーーと見られる権利は獲得していなかった。朱の族の最初の一団は、白蓮教の大叛乱の直後、つまり18世紀の末から19世紀の初めかに、はるか南の広東省からやってきた。その叛乱と満州朝による制圧とが、この地方の人口を稀薄にしたので、広東や広西の貧農たちが流れこんできて……」

 

朱徳の家族は、80年も四川に住んでいたが、まだ広東語を使い、広東の習俗を保っていて、朱徳の代になって広東と四川の二つの方言を話せるようになったという。

朱徳はここでは広東語といっているが、これは厳密にいえば客家語のことだと思っている。

 

先祖がかつて移動してきてよそ者として苦労した経験から、外の世界に目を向ける子孫が生まれたと考えるのは自然なことで、華僑の中で客家が占める割合が多いのもうなづける。

世の中の不正義に対して敏感であることや、勤勉であることも客家の特質として語られる。

海外で商いで成功した者が出てくるのも当然だ。

 

有名な太平天国の乱の洪秀全や石達開など指導者や兵士にも、客家が多かった。

孫逸仙もそうだし、朱徳の参謀長だった葉剣英も広東の豪商出身で客家だった。

その他中国革命に関わった有名無名の客家出身の人材はたくさんいて、毛沢東客家について論文を書いていることはハン・スーインの自伝で知った。

革命途上で、客家の特異性について考察せざるを得ない情況を見てきたのだと思う。

客家の歴史への興味は尽きない。

 

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『偉大なる道』にまつわる出版いろいろ

国家的偉業をなした人物の伝記はその国でたくさん出版されてきている。

『偉大なる道』で描かれている朱徳についても、中国では国家的事業としてたくさんの伝記が出版されてきているはずだ。

ただし、偉大なことは教育を通じて認識しているけれども、もう過去の人物として普段の生活ではほとんど意識にのぼることはない存在だと想像する。
このあたりの実感はよくわからない。

毛沢東周恩来など他の革命の指導者の伝記もそうだと思う。

 

朱徳の最後の夫人だった康克清は、革命に参加するまでは文盲で地主の畑の農作業に従事していた人なので、中国で伝記が出版されていることがネットでわかったときは読んでみたいとは思った。

中国語がわからないので無理な話だけれど。

 

朱徳たちが生きた時代から見れば、信じられないぐらい豊かな大国にのし上がってきている中国では、こういう革命世代の伝記なんて「もう古いもの」として、ほとんど読まれていないと想像する。

実際古い話だ。
古い異国の人物にこだわる私は、つくづくはぐれ者だと思う。


国家的事業で出版された政治家の伝記は読む気がしない。
どうしても実際よりも美化したり、悪い面はトーンダウンしたりしていい面を強調しているように勘ぐってしまうからだ。

だいたいこの種の伝記は出版はされても、さほど読まれていないと思うし、期待もしていない感じがする。

政治家とくに旧共産主義国の功労者としての政治家や宗教団体の教祖の伝記モノとか。


司馬遼太郎は、膨大な資料の読み込みと行動で独特の作品群を産みだした作家で、紀行文は好きで親しんだ時期があった。

坂本龍馬を扱ったフィクションは、残された資料に基づくこの作家の知性による創作人物であり、娯楽として楽しむ以上のものは期待できないと思っている。

 

『偉大なる道』を司馬遼太郎の作品と比べるのも無理な話だけれど、あの時期に革命途上にある人物から直接または周辺から参考になる話を聞いて、自分のジャーナリストとしての見識を動員して編集したという点で、重ね重ねすごく希少価値があると思うのだが。

 

アグネス・スメドレーは1892年生まれで、中国人の農民を描いた『大地』の作家パール・バックと奇しくも同年齢でしかも女性ということも共通している。

生い立ちはかなり違うが、中国を愛しているという点でもどちらも引けをとらない。

バックは1931年から1935年に出版された『大地』の三部作が評価され、1938年にノーベル文学賞を受賞している。

ぱっと出て、さっと賞をもらったという感じ。

 

スメドレーはこの『大地』を読んでいたかどうかわからないけれど、これだけ有名になっていたので、中国の農民の生活をきめ細かく描いた作品ということは知っていただろう。

バックは、両親がキリスト教の宣教師で幼い頃から中国で育ち、英語と中国語のバイリンガルで、中国の名前をもち、自分は中国人と思っていたぐらい中国社会に溶け込んでいた人だった。


私は、中学生ぐらいの頃に彼女の三部作は読んでいて、好きな作品だったので、『偉大なる道』を読んでいるときこの『大地』を想い出すことが何度もあった。

フィクションだけれど、バックが描く中国の貧しい農民、そこからのし上がっていく一族の個々の姿が、『偉大なる道』に出てくる人物たちと重なって、中国人でない作家がここまで創作して描けられることに、感心しながら振り返れたものだった。

 

スメドレーの『偉大なる道』はフィクションではない。

実在の人物からいい話も答えにくい話も、時には沈黙という形で直接聞きとりしているだけに、迫力やためらいなどが伝わり、ノンフィクションならではの読みごたえがある。


スメドレーが朱徳に聞き取りを申し出た理由のひとつは、中国の農民がかつて外部の世界に向かって口をひらいたことがないという確信だった。

フィクションではなくて、直接の聞き取りを活字にして発信したかったのだと思う。
だから、女性ならではの視点で衣食住にわたる生活の細かいことも聞き取りができている。

どんなものを食べていたか、どんな服を着ていたか、どんな遊びをしていたか、どんなところで寝ていたかなど。

このあたりバックの『大地』を少し意識していたように感じる。


エドガー・スノーというジャーナリストが、同時期に延安で毛沢東に直接聞き取りをした『中国の赤い星』という本も一時期有名だったらしい。

もちろん最盛期のアジア図書館で一覧できる中国コーナーには何気なく並んでいた。

 

この本は数年前にやっと読む機会があった。

中国革命の見識を広めるために手に取ったのだが、スノーが女性だったら、もっと早い時期に読んでいた可能性は高い。

『偉大なる道』よりもイデオロギーが強く出た作品になっているらしいと、数十年前にどこかで読んだことがあるが、共産党員でもない若くてリベラルなアメリカの青年が好奇心のおもむくままに毛沢東から話を聞き取った斬新な作品になっている。

中国共産党を全世界、とくにアメリカに広く好意的に紹介したことで有名な作品らしい。

スノーが延安に入ってこんな大胆なことができたのは、孫文夫人宋慶齢からの紹介状を密かにもっていたからだった。


スメドレーの『偉大なる道』を評価し、アメリカで出版できるように骨折ってくれたのもスノーだった。
この本の価値がわかっていた。

彼女は全米でマッカーシズムが吹き荒れる時代に遭遇したので、出版どころか住む家を見つけるのも困難な情況に追い込まれ、結局イギリスに向かった。

 

彼女は日本で出版されることを知ることなくイギリスで1950年に亡くなり、その骨は中国に埋められていることはよく知られている。
その墓石の文字は、朱徳自らの揮毫によるものだ。

 

なお、スメドレーが共産主義に共感を持っていたことは行動と主張から事実である。

経済的な援助をふくめて当時のソ連の機関とある程度の接触があったと考えても不思議ではない。


有名なゾルゲ事件の関係者で、戦中に死刑になった日本人ジャーナリスト尾崎秀実とは中国で愛人関係だった、とどこかで読んだことがある。

尾崎秀実は日本に妻子がいる身だった。

元は兄嫁だった妻と娘に獄中から書いた手紙が、『愛情はふる星のごとく』という題で出版され多くの人に読まれたらしい。

情熱的な人だ。

愛人関係か事実上夫婦だったかどうか事実は知らないが、どちらも異国で共感するものをもつジャーナリストであったことを考えると、十分ありえると個人的には思った。

スメドレーもゾルゲ事件の関連からだろうか、当然スパイ扱いされたらしく、そのことでも戦ってきた。
政府からの嫌がらせはひどかったらしい。
ゾルゲ事件については現在定説になっていることも、ほんとうの所はどうだろうかと私は思っている。
すっきりし過ぎている感じがする。


で、スメドレーがあの当時どんな主義を信奉していたなんてあまりこだわりがない。

『偉大なる道』を残した事実と彼女の見識、良心、勇気にただ感服している。

 

 

スメドレーが語る朱徳の印象 

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従軍慰安婦についてはあらたな表現作品を望む

前回の従軍慰安婦に関する記事のつづきになる。

今何が政治的、外交的に日韓で何が問題になっているかをじっくり情報を追いかけて考えてきたわけではない。

ただ気になるテーマであるので自分なりの知見で考えているだけ。

 

日本軍の戦地における従軍慰安婦についての朝鮮半島での募集は、戦前戦中も大ぴっらにやれるものではないし、誰でもやれることでもなかったと思う。

やはりうまくやれる人が必要だったというかすでにいたのではないか?

 

従軍慰安婦の発案は軍・官だととらえている。

 

軍・官 ⇒ 公職についていた ⇒ 民間の    ⇒ 不遇な状況 

      親日派        ○○紹介業者    にいた女

      |→→ここからは日本語の世界ではない。

 

少なくとも当時は国内であった朝鮮半島ではこのような流れがあったと考える。

 

発案した日本の軍・官が直接手を出して集めることはしていないと思う。
繰り返しになるが、レイプ以外の接触は考えにくい。

集めること自体は要人の暗殺と同じように末端の仕事だったと思う。

 

朝鮮半島において行政職につく親日派は、当時としては現地のKoreanから見ればかなり高給をもらっていたので、たとえ口に出して指示されなくても忖度して必死に動く人がいたのではないか。
こういう人たちはいつでもどこにでもいる。
そして実際集めるのはやはりプロだと思う。
集めるにはことばがいる。

 

従軍慰安婦は、一部の親日派の公務員や○○紹介業者によって甘言にだまされたとか、逃げようがないとか他に何もないという悲惨な状況下で、観念して連れていかれた不遇な女たちと現在の見識では考える。

それまでにレイプされているケースも多い?

ひどい話だ。

 

1945年の8月の解放当時、親日派の人で徴用や従軍慰安婦の募集に関することや、従軍慰安婦についてはさらに○○紹介業者で詳しい事情を証言できる人たちはいたと思うが、表には絶対出れなかっただろう。

 

解放後まもなく朝鮮半島で命の危険を感じた人たちがいた。

内地からきた植民者やその家族と考えるのは間違いだ。

亡父の証言によれば、一般的に日本の植民者たちは誰ひとり危害を加えられることなく帰国したといっていた。
少なくとも朝鮮半島南部では断言できるとはっきりいっていた。
亡父は「あれだけおさえられていたのに、引き揚げ準備をする日本の人たちにかわいそうに、かわいそうにと同情していた」と。

満州から朝鮮半島を南下して引き揚げてきた状況を綴った藤原ていの『流れる星は生きている』を読んでも、同じようにKoreanの民衆から心情的に助けられたようなことを書いている。

 

ところが、人の供出に関わったとされる親日派の人たちは情け容赦なく報復を加えられた。
逃げてもどこまでも探し出してきて、人民裁判のような形で死に近い制裁を加えられたと、これは亡父の証言。

たとえばどういう人かといえば、刑事だという。

当時朝鮮半島で刑事をやれるような内地出身日本人は、兵力不足でとっくに戦地にいっている。

こういう仕事は現地のKoreanが担っていたらしい。

 

解放後の政治情勢はさらに混乱し、朝鮮戦争が起こる。

 

その前に、1948年4月3日に有名な済州島四・三事件が起こる。


島民の5人に1人が虐殺されたといわれる。

本土から動員された将兵によるレイプもあっただろう。

この事件の原因はいろいろいわれていてとてもややこしい。

ひょっとしたらややこしくさせられたのかな。

 

本土からきた警備隊第九連隊の金益烈連隊長がこの悲惨な状況下で民衆側の代表とも和解交渉に成功していくのだが、米軍の干渉とかが入り混沌としていく。

 

その後金益烈は軍人として天寿をまっとうし、家族に死後開封するようにと「四・三の事実」という遺稿集を遺していた。

新幹社から『済州島四・三事件 記憶と真実』が出版されているが、付録としてその遺稿集の翻訳が掲載されている。

金益烈は、この事件の真実を知る人は朝鮮戦争でほとんど死んでいると語り、最前線のトップとして現場にいた立場から、この事件の事実を自分の死後明らかになることを望んだ。

そのなかではっきり「米軍政の失政によって島民と警察が衝突した事件」と書いている。

 

この遺稿集を読んだとき、四・三事件を知る第一級の資料だと思ったし、金益烈の生き延びた軍人としての責任のとり方に感動した。

 

徴用や従軍慰安婦について証言できた人を朝鮮戦争でも多く失っている。

 

今も問題になっている国際的な視野に立った法的な解決の仕方、謝罪の仕方についてはよくわからない。

ただ、元慰安婦だった老女の残り少ない人生を充実させることが急務で、もしそれが保障されているなら静かな余生をおくってもらえたらいいのではないか。

 

あの時代、悲惨な境遇にいた女たちの存在を元従軍慰安婦だった老女の証言で知ることができた。

さらにフィリピンやインドネシアでも日本軍の従軍慰安婦をさせられた現地の女がいたことを知った。

従軍慰安婦以外の犠牲者も名乗り出てきた。

 

老女たちが名乗り出た功績と受け止める人は少なくないと思う。

もうメディアなどの被写体として無防備に姿をあらわすことはたとえ銅像でもやめてほしいと思っている。

 

メディアからはなれた静かなところ、つまり政治的かけひきの舞台から降りたところで、元従軍慰安婦だった老女と向き合いながらことばを聞き取った韓国の女性による何らかの表現作品を望みたい。

そういう作品は朝鮮半島や韓国の女性史の一部を語る大事なものになっていくのではないか。

 

前回までの従軍慰安婦に関する記事

 

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従軍慰安婦の時代背景を文芸作品で考える

作家宮尾登美子の文体が好きで、エッセイを若い頃よく読んだ。
小説は1冊も読んでいないが、映画化を通じて花柳界(この表現でいいのか?)という、普通の人なら書けない世界で生きる女の人生をたくさん描いていることはわかっていた。

 

彼女はとてもめずらしい人だ。

彼女の父親は娼家を経営していた人で母親とは離婚したので、彼女は父方で育てられた。
生家の家業については長く恥ととらえていたようだ。

 

その父親が亡くなって遺品を整理したとき、親族が誰も興味をもたなかった父親の仕事上の記録帳のようなものを見つけ、彼女がもらい受けた。
その遺品によると、日本内地から満州方面まで娼館で働く女性を集めて連れていくような仕事もしていたことがわかった。
その際のお金の出納も記録されていたと記憶している。
このあたりはもうはるか昔の読書歴なので、私の記憶はあいまいだ。
とにかくかなり貴重な資料を偶然入手したおかげで、表にでにくい父親の仕事を反映した小説を書くことができた。


正式になんと呼べばいいのかわからないので、彼女の父親の仕事は○○紹介業ということにする。
こういう仕事があることが印象に残った。

そういえば、日本映画でこういう紹介業の男が若い女を家からつれていくシーンは何度か見たことがある。

娼婦のいるところに必ず○○紹介業につく男の存在があった。

 

彼女は長く父親の仕事に対してコンプレックスをかかえてきたが、自分にしか書けない小説を手がけることで跳ね返した。

 

明治以降、東南アジア各地に日本町ができると、娼館の需要が生じた。
ノンフィクション作家山崎朋子は、日本に帰国して地方の片隅でひっそり生きている元娼婦だった老女と何とか接触することに成功し、信頼関係を築いて話しを聞き取り、『サンダカン八番娼館』を世に出した。

このノンフィクションは話題になったし、よく読まれたし、本は読んでいなくても、多くの人がからゆきさんという娼婦たちの存在を事実として受け入れた。

後にこの作品の映画化の話しが出たとき、この作家は映像でセンセーショナルに扱われて元娼婦に迷惑がかかることを危惧して悩んだとどこかで読んだ。

今でもビルマには帰国できなかったからゆきさんたちのお墓が残されている。

 

戦前、朝鮮半島にいた植民者の日本の人はみな優雅に暮らしていたのだろうと思っていたのだが、父の話しによると、ものすごく苦労していた人も少なくなかったらしい。
何とか聞き取れた例の一つが、病気をもち、やせ衰えているにもかかわらず無理に客をとらされていた娼婦だったという。

戦争中、もう内地では娼婦のなり手が見つけにくい状況があったのではないかと思っている。

もちろん当時の朝鮮半島では現地のKoreanが経営する娼館も多かったのだろう。

ないはずがない。

 

戦後、中国東北部から開拓民が避難していく途上で、ソ連兵から陵辱を受けた女は少なくない。他の若い娘を守るために、自ら進み出て犠牲になった女の話しも読んだことがある。

終戦まもない頃、日本列島に上陸した米兵がみな行儀のいい人だったはずがない。
振る舞いの悪さは現在も数は少ないかもしれないが、ずっと続いている。


五味川純平の『人間の条件』には開拓民の一人の女子高生が一人の日本兵にレイプされたり、中国の捕虜の男が、目の前で日本兵に自分の妻が輪姦されたと語るくだりもあったと思う。

アグネス・スメドレーの『偉大なる道』でも、中国のどこかの市長が日本の将校を接待するために宴会を開いたが、自分の妻をその場でレイプされたというくだりがあった。

もっとさかのぼれば、義和団の乱を制圧するためにきた西洋列強の将兵たち、南京事件での日本兵、そして内戦時の国民党軍によってどれだけ多くの中国の女が陵辱を受けてきたかが書かれている。

 

近代のはじまりから戦争時の、強者による弱い立場の女へのレイプや輪姦など枚挙にいとまがない。

 

こういう売買春や将兵たちによるレイプが公然と行われる時代を背景にして従軍慰安婦については考えている。

 

戦争体験談の中できいた従軍慰安婦

ネットでまた従軍慰安婦という言葉が目に付いたので、ブログの引越し最中なので過去の文章を探し出して編集し直した。

 

従軍慰安婦について書かれた本を1冊も読んでいないし、こだわって詳しく調べたこともない。

なので、日韓のあいだで、今何が問題になって合意できないのはどうしてかということもわかっていない。

 

日本軍の戦地での従軍慰安婦はたしかに悲惨な状況の中で存在したととらえている。

 

若い頃働いていたアジア図書館ではアジア関連の書物に触れることが多かった。

ちょうどそのころ、メディアでも元従軍慰安婦の存在を取り上げていたと記憶している。

従軍慰安婦をキーワードにして、被抑圧者としての女をテーマに蔵書を一同に並べる企画もした。

さらに、アジア図書館では講演会も企画していたので、元将兵から戦争体験を生の声で聴くという貴重な機会もあった。

 

シベリア抑留を経験した元兵士だった人が、独身のものは慰安所のような所を利用している気配はあったが、自分は結婚して家族がいたので利用していないという内容を語っていたのを覚えている。

ただし、この場合は戦場が満洲中国東北部なので、慰安婦がどこの民族の出身かはわからない。

多分、現地の女性たちだと想像する。

 

ビルマ戦線にいた元将校だった人は、体験談の中では慰安婦については一切触れなかったが、会場で後片付けをしている私に近づいてきてちょっと立ち話になった。

つまり、戦地にいたときは慰安婦は「素人」の女性とは思っていなかったという内容を言葉を慎重に選びながら毅然と語り、さらに軽く頭を下げた。

メディアでとり上げられていた頃だったからだ。

この方は亡くなるまでアジアの留学生にかかわっておられた。

 

戦地(多分ビルマだったと思う)でKoreanが哀しいときに発する「アイゴー、アイゴー」という言葉で泣く慰安婦の声が戦後もずっと忘れられないという老兵の心境を綴った短歌が新聞に掲載されているのをどこかで読んだ。

 

ビルマ戦線について書かれた本で慰安婦が写っている写真を見たことがあるし、兵が撤退するとき自分たちは逃げれないと観念し、数人でかたまって地の上に横たわっていたという目撃証言を読んだこともある。

 

1990年代よりずっと前に、日本のYという男性が自分は済州島で数百人の若い女性を慰安婦として仕事の一環で「狩りだした」という内容を証言した。

広い会場の舞台上で、引っ張る手振りをしていたYさんの姿を遠目に見た記憶がある。

当時は衝撃的なものだった。

私もよく知らないまま、当時はそのまま受け入れがたい事実を受け流したと思う。

が、現在は矛盾点も多くその真偽は不明らしい。

 

これは私も現在の見識では事実とは思っていない。

Yさんは何か別の目的があったのだろう。

ひどい話しだ。

 

当時Yさんは三十前後と思われる青年ということで仲間もいたらしい。
戦地に行かなくてもよかったの? 
それと言葉が通じない。
言葉が通じなくても暴力は使えるけれど、どうかな……。
言葉が通じなくても直接人と人が接触する暴力が行えるのは、こういう状況下ではレイプ以外想像できない。
それと済州島というのもひっかかる。
土地勘がない人がやれるかな。

 

ニューギニア戦線の元将校の方の体験談を聴いたことがある。
フィリピンでは文芸作品を通じて兵士が飢えて人肉を食べたという事実は知られているが、その方はニューギニア戦線でもその事実はあったと証言していた。
但し自分は食べていないとはっきりいった。
実際食べていたら、こんなところで話すことなんか絶対できないと真顔でいっていたのが印象に残っている。

この方も亡くなるまでアジアの文化交流活動をされていた。

 

暴力で慰安婦を数人ではなく数百人という数を直接集めたと証言するYさんのパフォーマンスが大げさな感じがする。

 

従軍慰安婦だった女性Kさんの大雑把な経歴を見たけれど、正直いうとちょっと違うなという感想をもった。
もちろんレイプもふくめて悲惨な人生を経験してきたことは伝わってくる。

ちょっとこだわるまでは、KさんはYさんの証言に出てくるような女性だと思ってきたからだった。

 

 

 

                                      

海を見つめる父

幼い頃両親が離婚したとか、片方の親が外を向いていたり、両親の相性が合わなかったために家庭内が落ちつかなかったという話はたくさんありすぎて、さほど珍しいものではないとは思う。

歳を重ねてきて見聞きする限り、どこの家庭にもそれぞれ独特の問題があって、仲がいい両親だったというケースの方が少ないんじゃないかな。

それと経済的に回っていけば、傍から見れば波風立たずに通過していくものとも思える。

 

個人的には落ち着かない家庭で育った人の方が味があって共感できるので好きだった。

 

私の知る著名人は、精神科医神谷美恵子、作家のハン・スーイン、辻井喬向田邦子須賀敦子萩原葉子、梁良枝そして曽野綾子さん。

映画監督のスピルバーグ氏もインタビュー番組の中で幼い頃の両親の離婚と現在の自分との関係を語っていた。


メディアで知る曽野綾子さんだけはどうも相性が合わないけれど、小さい頃の思い出を書いた父憎しの文章は覚えている。

普通は同性の親に憎しみが向う方が多いのに、この女性は異性の親と衝突している。

結局両親は離婚した。父と娘でここまでこじれた関係はほとんど知らない。


過ぎてしまえば、あれは何だったのかと思える。

重ね重ね時間とはありがたい。

父の結婚にまつわる断片的な情報を得て、深い溜息とともに周囲の人間関係の中での父の誠実さが際立つ。

一人の女性が生涯楽に暮らせる資金を手渡せるならば、離婚していたケースだった。

「いっしょにいこ」
といって連れて行ってくれたのはA港の近くの海岸。

中学生の頃だったと思う。
 
育った町は北部の閑静な住宅街と対極にある南部の商工業地域で、車で果てしなく南へ進むと海岸に出る。

大人の背を超えるコンクリートの壁を階段で越えると、工業地帯の海だから汚いけれど、やはりそこは海であることに変わりなく、水平線に目をやると運搬船がゆらめいて航行している。

海岸沿いの工場の煙突や吐き出される煙、灰色に曇った空、澱んだ海水。

ロマンチックな背景は何もないが、詩的な情緒を与えてもらえる人もいる。
 
亡き父がそうだった。
 
海の広がりは、詩人の心さへあれば、水平線の向こうに両親や弟妹たちの住む韓国の釜山へ導いてくれる。

父はテトラポットに足を立てて座り込んで海を眺めていた。

それが寂しげなものに見えたから声をかけることはできず、「帰ろ」といわれるまで私はテトラポットテトラポットの間の溝をバランスをとりながら超えて遊んでいた。
 
こういう心境のときにお供させられるのは長女の私だった。
父と母の関係がどうもうまくかず、理性がある方ががまんするしかない。

父の世代の在日の男性で父ほど耐えぬいた人はいないだろうと思う。

「仲がよかったときもあるんやで」
と母の葬儀を終えて、心のバランスをくずしている私に声をかけてくれた人がいる。母方の実家に他家から嫁いできた人で、長女として私が相性が合わない父母の関係を見つめて疲れきった日々があったことを知っていた。

母方の親族との関係に一線を引いて以来、ほとんど会うことがなかっただけに、再会は感情的なもつれをほぐしてくれる可能性を感じて時間の恵みを感じた。
親戚という枠をはずせば、目の前の老女は一人の在日として紆余曲折の人生を歩いてきた弱い立場の位置にいることは理解できる。
 
どうして父は母と結婚したんだろう。
 
父にも事情があり、母にも事情があった。

父にも言い分があり、母や母方にも言い分はある。

母方の親戚から私は好かれることはなく、妬みと恨みの対象になっていた時期があった。

結果的に在日社会から距離を置いて自由に生きることができたので、よかったと思っている。

こうして客観的に振り返ることができることも、時間の恵みを感じる瞬間だ。

かつて海を見つめていた父の年齢をはるかに越えてしまった。

父を案じる親族の記憶の原点は釜山からの国際電話

学生の頃一人で釜山に行き、初めて父の親族に会ったとき、

「ここを切って一人で生きたのか……」

という感慨で油断すると涙腺がゆるむので、気を張っていた記憶がある。

妹も同じ感慨をもったと聞いた。

 

父は自分の人生を振り返り後悔することが多かったけれど、濃厚な儒教に基づく親族から離れていたので、自由に生きれる可能性を娘に語っていた。

そしてその可能性は当たっていた。


父は片足はまだ儒教の世界に置いていたが、私は儒教は博物館で眺めるものに完全に変わってしまった。

この儒教との断絶が私のような境遇で育った者にはすごく得難いものであることがわかった時、よかったとしみじみ思ってきた。

だから両親の不和も「家庭のしつけがなっていない」という日影の言葉も引き受けられた。

               

小学校時代わが家に国際電話がかかってくることがあった。

昭和40年代の初め、電話回線が、一般家庭として商家や裕福な家庭に限られていた時期から、その頃にはほとんどの家庭に引かれていた。
 
しかし国際電話がかかってくる家は稀だった。

オペレーターが、
「釜山からの国際電話です」
と伝えると、受話器を持つ父は覚悟を決めて弟の声を待った。

父は本来母語であった韓国語を自由にあやつる言語能力を失っているので、すぐ下の弟である叔父が日本語で話していたと思う。
 
私が幼かった頃に何度か目撃した光景で、国際電話で誰としゃべっているのか不思議だった。

その上父が喜んでいるようにも見えなかったことが、私を不安にさせた。

叔父は受話器の向こうに父の声を確認すると、祖父に受話器を渡す。

電話口の向こうでは、受話器から漏れる父の声に親族が耳を集中させていたと思う。

祖母や涙もろい叔母の一人はきっと泣いていたに違いない。
 
祖父は一度も帰ってこない長男である父に威厳を持って説得する。
 
祖父と父は韓国語で互いの意思を伝えあう関係にはない。

このとき祖父はかつて覚えた日本語を駆使していたと思われる。

父もほんの短い期間で覚えた韓国語を使おうと努力するが、いいわけできる適したことばが咄嗟に浮かばず、身を硬くして聞いているが、祖母に受話器が渡ると、
「オンマ(お母さん)」
と一言だけ返して、胸に迫ってくる感情にゆだねてしまう。
父が初めて身につけた母語と思われる。
「なんていってんの?」
受話器を置いた父に私が問うと、
「一度帰ってこいって」
父が感情を抑えていうと、顔を洗いにいった。
 
私は幼い頃から父の近くにいる子どもだったので、父のことを親身に思う人たちの存在を感じて胸が熱くなる。

そう思える父と母の関係や父の境遇がわかる年齢になっていた。


しかしある時期までの父は、親族にそっとしておいてほしいと願っていたように思う。

なっている電話の着信音が国際電話とわかれば、とらずにそのままにしたかも知れない。

子どもはまだ小さかったので、どこにも持っていきようのない感情を抱えて生きていたころだった。
 

国際電話でのやりとりが父と釜山にある父の家族の存在を感じる原点だった。

 

もう叔父や叔母は高齢で、亡くなった人もいる。

さらにコロナ禍の時代になり収束の見通しがたたない。

この国際電話のエピソードは叔父と叔母に語れずに終わりそうだ。