2020-12-04から1日間の記事一覧
現実とは何かといえば、彼によれば、雲南護軍は、いまや四川を脱出しなければ、全滅の危機にのぞんでいる、ということだった。全中国は軍閥地獄であり、人民は途端の苦しみの中にあった。新軍閥の呉偑孚(ごはいふ)が北京の権力をとり、一時的に孫逸仙の南…
「その短期間の戦闘にやぶれて、旅団は大損害をうけた」と朱将軍はゆううつに語った。 「一週間とたたないうちに、弟は二人とも戦死した! 私は弟たちの棺を守りながら、部隊を濾州まで引きあげた。おそろしい帰還だった。両親は、あまりの打撃に泣くことす…
彼は一方では、護軍のことを、孫逸仙の、合憲的ながら無力の共和制になおも忠実なる軍隊と語りながら、その旅団に自分の肉親を送りこんだのだから、いささか軍閥めいたことをやっていたといえるだろう。 家族のものは、朱徳の権勢と地位にすっかり恐れをなし…
時ははやく流れたが、彼らは議論するだけで、何もしなかった。何年かたって1920年という血なまぐさい内乱の年がきたが、彼らは議論ばかりしていた。朱将軍は、いまや家族をおのれの逡巡の口実としていた。彼は1919年の秋に、一族のもの20数人を濾州によびよ…
いや、迷路はこれでも尽きない。第二次世界大戦後、アメリカが中国における主導の外国勢力として立ちあらわれたとき、アメリカのスポークスマンたちは「政学」系こそ、中国に民主主義政府を樹立する力をもつ「自由主義者」であり「民主主義者」だと推奨した…
雲南護軍は、旧同志からの最後の通告にはしたがわないで、成都に向かって進撃し、標本Xと彼の盟友劉湘を省外に追いはらった。彼らは北方の陝西省にのがれて、新軍を徴発訓練して、北京から金をもらい、やがて四川になだれこんできたので、ここに清朝派打倒…
朱将軍の物語は長くて複雑だったが、もともと中国でのこの種のことは単純であるはずがない。それは、かぞえきれないトンネルが入りまじった広大無辺の地下迷宮にも似ていた。 熊克武(ゆうこくぶ)将軍、すなわち標本Xは、幕僚張群とともに、そのときまでは…
1917年に成都の主権をにぎり、雲南護軍と休戦したのち、勝ち誇った軍閥一派は、使節を護軍に送ってきて、近接の貴州省雲南省にそなえて軍事同盟を結ぼうと、申し出た。そして一方では、その成都軍閥は、別の使節を貴州と雲南省に送って、護軍に対して軍事同…
中国の軍閥時代の話は早く片付けてしまおうと思って、私は朱将軍にむかって、その軍閥さわぎはいつ始まっていつ終わったのか、それだけ教えてください、とたのんだ。 それは袁世凱とともに始まったが、今日もまだ終了していない、と彼はこたえた。そう彼がい…
この再婚の時期は、偉大なる五四運動のころにあたっていたが、それは1919年の学生運動のことであって、北京の学生と教授が、北京の軍閥政府の国家への裏切りに対し、またパリ講和会議において連合国が、ドイツの中国内の権益を日本に与えるという裏切りに対…
「私が引きつけられたのは、多分、あの女がすごくまじめで、落ち着きと威厳をもっていて、また1911年と1916年の革命の地下工作者だったからだろう。裕福な学者の家の生まれで、もっとも早いころから革命運動に積極的に関係していた。私たちは話し合っている…
朱徳の最大の個人的問題は、母のない子どものことだった。彼の夫人は、ほんのしばらく前に亡くなったばかりだが、その時代では、夫が妻の死後早々に再婚することは、少しもおかしいことではなかった。個人ではなく家が、そのころもなお中国社会の基礎であり…
蔡鍔の遺骸が地下に静かに落ち着くひまもないほどのときに、朱徳の若い夫人が、赤痢のような奇異な熱病におかされて亡くなった。さらに、彼を埋めるかどうかのときに、少年時代の級友ウ・シャオ・ペイが、かねて自宅療養でふせていたが、中国の知識人階級の…
彼はさらにいろいろなことを思い出した。孫炳文とならんですわりながら、消耗しきった蔡鍔の身体をのぞきこんだこと、孫が「新思潮」について熱く語ったこと、また彼自身が、蔡を慰めはげまそうと思って、選挙による旧議会がふたたび北京で召集され、儒教を…
この民族復興の運動の先頭に立ったのは、北京の国立大学であり、1915年の混乱の最中にすぐれた教授たちがきらきら輝く無数の星のように輩出して、「新文化」または「新思潮」と呼号し、外国人たちはこの新運動を「ルネサンス」とよんだ。 中国人が一般的に「…
軍閥闘争の時代について語ったとき、朱将軍は、おのれを英雄として描き出そうというような努力は一切しなかった。それどころか、彼と彼をとりまく環境についての描写は、悪夢のようだった。彼の姿は、渦巻く妖雲の中であてもなくゆれ動いている感じで、はじ…