2020-12-13から1日間の記事一覧
大衆の武装力である紅軍だけが、中国人民のこの貧窮と従属に、革命的な解決をもたらすことができる、と毛沢東は言明した。しかし、この目的を達成するためには、紅軍に一定の改革をおこなうことが必要である。彼が将来の政策について大会に提案した決議は、…
古田の紅軍代表者大会で朱将軍は、紅軍成立以来のあらゆる行動を回顧しながら、年次軍事報告をおこなった。毛沢東は政治問題について報告したが、それは単に紅軍とソビエト地区についてだけではなく、国内情勢からさらに彼が知るかぎりの国際情勢にまでおよ…
その付近には6百人のパルチザンがいた。そのうち2百人近くは、1年ばかり前、朱徳と毛沢東にしたがって井岡山の封鎖を突破した紅軍の古参兵だった。彼らは一年前のきびしい冬、この山岳地帯一帯で紅軍が死にものぐるいの戦闘をつづけていた当時、病気にかかっ…
上杭にはいってからわずか数日後、朱徳は、ふたたび行軍を開始し、福建南部一帯の敵軍を掃討した。10月の末になって、朱徳と彼の部隊はついに福建南部に隣接する広東省東江地方へ突入した。この地方は、かつて2年前、有名な「鉄軍」が撃破されたところだった…
狙撃兵が城壁上の電燈を射ち落として、西側にいる臼砲隊に合図を与えた。敵の哨兵はまた赤衛隊がいやがらせ行為をしたぐらいに考えて、ただえんぺい物のかげにかくれただけだった。ところが、つづいて臼砲が西門を砲撃しはじめたので、城内にいた敵の旅団の…
宵闇が立ち込めてくると、上杭はまるでおとぎ話の国のようになった。上杭には発電所があり、市の支配者と守備隊は城壁のてっぺんにぐるりと電燈をぶら下げていた。彼らはおろかにも、これで、夜間城壁の上を巡察する哨兵が、城壁の下に近づく、あらゆる攻撃…
まさしく、民謡が語っているとおり、仲秋の日に朱徳は正規軍二個連隊と数個部隊の赤衛隊をひきいて、福建南部の上杭に向かって進撃した。行進してゆくと、沿道の農民たちは、それぞれ鋸(のこぎり)や斧や槍をとっていっしょに行軍しはじめた。ある日の午後…
朱将軍が次に生涯の話をしにきたときには、おもに歌と戦いについて語った。というのは、朱徳という人にとっては、歌うことが生活の一部になっていて、彼の生活と思想は、戦いによって形成されたものだからだった。 「われわれがくるまでは」と彼ははじめた、…
その年の9月1日には、朱徳は福建西部のソビエト区に帰ってきていた。この地区から福建省軍はすでに退散していて、広東から北上した敵の諸部隊は毛沢東の絶え間ない攻撃に、疲労困憊(こんぱい)して撤退していた。しかし、こんどは毛沢東がマラリヤにかかっ…
福建省の西南部や江西省の南部では人民は依然として闘いつづけていたが、いまや非常に苦しい時代がやってきた。主要な町や都市はすべて、強力な敵の諸部隊に占領され、人びとは村々へ逃げのびて、数少ない貴重な文書を地面に埋めてかくさなければならなかっ…
寧都の勝利は、一時的なものにすぎなかった。この町の占領して2週間後には、紅軍はふたたび行軍を開始した。北方から三個師団の敵軍が血に飢えた目つきをして、圧迫を加えてきた。紅軍はまず、寧都のソビエトと多くの人民組織が山地の村々へ撤退するのを援助…
「さあ、きけ!」と朱徳はこの小男にむかっていった。「われわれは、おまえを銃殺の刑にするのが当然なんだが、もし、われわれの命令に服従するなら、そうはしない。石城のおまえの家には、たくさんの小銃、機関銃、弾薬箱があるし、農民からまきあげた莫大…
朱徳はいつも暇を見つけては、捕虜になった敵兵と話をした。寧都の捕虜はひどく貧しくて、文盲で、素朴な心情をもった農民ばかりであった。彼らは、朱将軍の言葉によると、「鉄砲の撃ち方のほかは、何ひとつ教えられていなかった」この敵連隊の兵士たちみな…
数週間にわたって、東奔西走し、南北に敵を粉砕しながら、ついに朱徳は、堅固な城壁をめぐらした寧都の町にむかって北進した。彼は、かつて一発の弾丸もうたずに、この町を占領したことがあったが、今度は、国民党の将校レイ・シー・ニン大佐が、完全装備の…
かろうじて死をまぬがれ、疲労こんぱいし、目を血ばしらせて、朱徳のもとにたどりついた農民もたくさんいた。あるものは、息子や兄弟を殺されたはげしい悲しみに泣き、あるものは、憎しみをこめた声で、「わしにも、たたかわせてください!」といった。朱徳…
農民たちの呼び方でいうと「百頭」地主どもは、大きな町や都市に住み、堅固な城壁に囲まれてきわめて安泰に君臨していた。その城壁の内側では、これらの地主は、役人であり、裁判官であり、陪審員であると同時に、死刑執行人であり、かつ民団や地方省軍守備…
さて、地主の民団や地方軍と戦いながら、江西南部じゅうを進撃してまわった旋風作戦の話をしているとき、朱徳の社会学者としての一面が顔を出してきた。これらの地方では、農民たちは、ぼろぼろにくすれた城壁にかこまれた小さい村々に住んでいたと彼はいう…
さて、瑞金会議は、毛沢東議長のもとに2つの独立した軍事的、政治作戦を立案した。第一の作戦は、朱徳と毛沢東の指揮下に、江西省の南部および中央部の反革命勢力を粉砕して、福建省西部もふくめて、これらの地域を中央革命基地に転化するという計画であった…
このようなありし日の思い出を回想していた朱将軍は、「トロッキストと、右翼日和見主義者の一味」の活動に関する上海報告書のひとつを思い出した。これらの、かつての共産党員たちは、――と彼はいった――、共産党、あるいは特に朱徳と毛沢東が、「民主主義革…
外界との通信連絡が確立されたので、朱徳と同志たちは、もはや自分たちは暗闇の中で行動しているのではないと感じるようになった。薄いライスペーパーに、顕微鏡で見ないとわからないような細字で書かれた、上海からの報告書は、海外においても、帝国主義諸…
1月のはじめに、朱徳と毛沢東が井岡山を出発してから、敵は、この要塞への封鎖を圧縮してきただけでなく、最後には奇襲をかけてきた。一人の敵兵がえらばれて、腰のまわりに綱を結んで、絶壁を正面からよじのぼってきた。彼は頂上に達し、つぎつぎとほかの兵…
汀州は、あきらかに、中国革命史上の転換点だった。上海にあった共産党中央委員会からの使者が、国内や国際情勢に関する報告書と別の種類の重要書類を持ってやってきたのは、まさに、この汀州の町であり、占領から2,3日あとのことであった。これらの文書のな…
2つ目として、朱徳は小さい日本製の兵器工場のことも思い出した。この工場は、クオ将軍の弾薬の大部分を補給していた。この作戦で鹵獲(ろかく)した兵器のうち、2千丁の小銃と「数十丁の機関銃」は、すべて新品で、これまた日本製であった。 しかし、なによ…
この最後の戦闘のまっただ中に、ひとりの哨兵が、朱将軍の司令部にかけこんできて、大声で報告した―― 「立派な軍服を着て、贅沢品を身につけた太った大男が、小舟で川をわたって、逃げようとしましたが、殺されました!」 太った大男とは、まさしくクオ・フ…
汀州は、もと匪賊の頭目クオ・ファン・ミンに統治されていた。彼は、匪賊として成功し、大地主になり、国民党の将軍になった男である。クオの部隊は、国民党軍に編入されてはいるが、その大半が職業的匪賊であり、アヘン吸引者だった。彼らを、汀州の城壁か…
疲労こんぱいの限界にたっしていた紅軍の将兵にとっては、この8日間というのは、休養するにしてはあまりにも短い時間であった。けれども、東固についてちょうど8日目の晩、月が高く中空にさしかかった頃、朱徳と毛沢東は、3千の部隊をひきいて東側の斜面を…
朱徳も毛沢東も、あるいはほかのどの指揮者も、兵士たちと同じ格好をしていたので、まったく区別がつかなかった。1929年の夏、朱徳をうつした色あせた古い写真がある。一個中隊の兵隊が、輪になって地面に腰をおろし、膝のあいだに銃をおき、昂然と顔をあげ…