『偉大なる道』第九巻(改編)
朱将軍はこんなふうに答えた。中国は百年のあいだ帝国主義列強の半植民地であった半封建の国だ。この1世紀の間、中国の政府は西欧帝国主義の卑しい道具だった。北京や南京や上海は、国の利益を最高入札者に売りわたそうとする反逆的陰謀の策源地だった。 確…
以上のようにして、江西省寛田を出てから満2年1ヵ月と19日で、長征という一大叙事詩の幕がおりた。再集結した紅軍の実勢力は、8万で、1934年10月に江西を出発したときの中央軍の戦闘力とほぼ同じだった。西北の山野に集まったこの勢力は、歴史的に類のない独…
「11月9日、10日、11日。第一、第二、第四各方面軍司令官が連日朱徳や参謀と会合。蒋の軍隊は依然として集中しつつあるが、われわれはもう後退しない。戦闘を前にした、息詰まるような数日、方々で紅軍戦士の集会がひらかれ、なぜわれわれが広い地域から撤退…
「10月30日。紅軍士官学校での、朱徳の第1回目の講演をきく。明快にきびきびと語った。情熱的で、将来に確信をもっている。学生たちに、来たる抗日戦において中国の当面する偉大な任務に応ずるため、日夜学習するよう訓示した。賀竜も話をした。何と張りきっ…
10月26日シャオ・ホ・チェンで、この地方にいる全紅軍の大集会がもたれた。林彪やその他の指導者が立って、西北の情勢、紅軍と白軍の配置、日本軍の綏遠侵入などについて詳しく報告した。蒋介石は、胡宗南と王均がひきいる十個師団を甘粛省に送って紅軍と戦…
ヘイテムは手紙のひとつに次のように書いている―― 「朱徳のことで、もっともおどろくべきことは、すこしも軍司令官らしく見えないことだ。まるで紅軍の親父といった印象だ。射すくめるような眼をしているが、すばらしい微笑をたたえながら、物静かにゆっくり…
朱徳の軍と林彪の第一方面軍がおちあった当時の状況については、1936年の夏、紅軍に加わったアメリカ人の若い医師、ジョージ・ヘイテムの書いたものがある。ヘイテムはスイスとシリアのベイルートの医学校を卒業した医師だが、紅軍衛生部隊に参加して、ひき…
南京政権は、1936年11月の東京・ベルリン防共協定には調印しなかったが、蒋介石の外交部長張群将軍は「中国は共産主義に対する断固たる態度を一時も放棄するつもりはない」ことを、くり返し日本に保証した。 親日要人として有名な張群は、すでに1935年のはじ…
日本の綏遠進撃は、蒋介石のあらたな掃共作戦と呼応して、紅軍だけでなく、青年元帥張学良の旧東北軍や彼と同盟関係の楊虎城の陝西省「保安軍」に対する挟み撃ち作戦の形になった。蒋は、紅軍討伐に対する西北軍の反対気運を「規律と指導の欠陥」に過ぎない…
ファシスト胡宗南軍や、回教軍、旧東北軍と何回も激戦を交えた後、1935年10月20日、毛の縦隊はついに陝西省北部に到達し、劉志丹のひきいる1万の紅軍遊撃隊と合流した。劉の遊撃隊は1927年以来この地方で戦っていた。1934年第四方面軍が西北に残していった徐…
蒋介石は、有名な十九路軍の一師団まで辺境地帯に送りこんできた。だが、紅軍との戦闘でその二個連隊が壊滅すると、指揮官は逃亡し、8百人の兵士が投降してきた。この兵士たちの話しを聞けば、十九路軍のかつての指揮官たちは、ほとんど追い出されて、藍衣社…
日がたつにつれ、行軍の途上や、先鋒隊がつくった避難所の中で、ますます多くの死体を見かけた。疲労困憊した人びとは残されたわずかの力をかき集めようとして、避難所で横になるが、後続の人びとは彼らが死んでいるのを見かけることになった。どの死者の頭…
紅軍の別のひとり、モー・シューは、日記の中でこう書いている―― 「今日、ひとりの同志がどろどろの水の中でもがいているのを見つけた。体は引き込まれて泥水でおおわれていた。鉄砲をしっかりつかんでいたが、泥の杖のように見えた。私は、彼がただ落っこち…
紅軍は大草原の東の縁にそって進んだ。そこでは沼沢もそれほど深くなかったし、騎馬の部落民が時たま利用する狭い筋のような土地があった。各自8日分の食糧と燃料を携行した。行軍の先頭に立った林彪の第一方面軍は、後続部隊の避難所を作るために、竹のすだ…
あるとき、私は彭徳懐の司令部の人たちが長征のことを語り合っているのをきいた。そのうちのひとりがいいだした。 「同志の道といえば、ぼくは君たちの誰が長征中にほくの針を盗んだか聞きたいね。今まで口に出さなかったけど、今だに針がないから思い出した…
朱将軍が抑圧を受けた状態で1年を過ごした西康省の状態がどのようなものだったかは、彼の参謀のひとりから聞いた出来事からも想像できる―― 「紅軍には、あらゆる職種をふくむ労働者農民がいたから、ヤク、羊、山羊などの毛をつむいで織って制服を作ったり、…
「われわれは兵士の生活の現実――彼が働いていた地主や資本家、兵隊になってからは将校から受けた圧迫や侮辱、罵倒や打擲(ちょうちゃく)から出発しなければならない。われわれはまた、白軍では兵隊が病気や負傷をしても、ほとんど世話をしてもらえず、死ぬ…
四川の将軍たちが「日本帝国主義の露はらい」の道を選んだことは、歴史からみてもはっきりしているし、朱徳が楊森将軍の部隊と西康省ティエンフとミンヤーで2回の交戦のあとに書いた論文からも明らかだ。この戦闘中に多数の四川兵が紅軍に寝がえった。 この…
1935年12月25日付のひとつの文章は、四川軍将校たちにあてた長文の公開状であった。簡潔で、しかも力強い文章で、19世紀半ばからその当時までの中国の独立のための闘争の歴史的分析ではじまっていた。 この公開状には、東京と南京とのあいだの悪名高い塘沽協…
朱将軍が、事実上張国燾の捕虜のような状態で西康省ですごした1年間のことについては、私は、彼からは話がきけなかった。私たちの会談が彼の生涯のこの時期にさしかかったとき、抗日戦がはじまって、彼は前線に出動したからである。そこで私は、ほかの人の話…
「第一は、毛沢東を弾劾して彼とのあらゆる関係を切れ、ということだった。 「朱将軍は『われわれは一心同体だから、ひとりの人間をふたつに分けることができないように、自分と毛との関係を切ることはできない』と答えた。 「張の第二の命令は、華北に移動…
「会議は大いに荒れたが、最後に張は、第四方面軍でおこなわれている軍閥のようなしきたりややり方を、完全に改めることを約束した。しかし、蒋介石が前途に10万の軍隊を投入していることを理由に、北進政策への反対は撤回しなかった。最善の策は、来た道を…
「われわれは、砂漠でオアシスに近づくような喜びで、懋功に近づいていった。そうした気分も手つだって、張国燾と彼の一派の士官たちの態度にはあきれてしまった。まるで金持ちが貧乏な親戚をむかえるような態度だったからだ。 「張国燾の傲慢な態度は、最初…
ある政治工作員の説明によれば、こんな状況だった。 「第四方面軍には5万人の兵隊がいた。四川、湖南、湖北出身の身体が大きい勇敢な連中だった。彼らはもともと貧農や農奴だったので、何でもする気になっていた。高い英雄主義を発揮して戦ったし、よく困苦…
紅軍主力は1週間休憩した後、彭徳懐のあとを追った。朱将軍は出発を前に次の命令を出した。 環境は困難であるが、軍事、政治教育工作はたえず継続され、紅軍の六原則は厳守されなければならない。――(1)命令に従え、(2)敏速に行動せよ、(3)時間を厳守せ…
彭徳懐の先鋒隊に同行した政治工作員のひとりが、次のような話しをしてくれた。 「われわれは、黒水付近で4日間ファン族と戦って、ウェイクというみすぼらしい小部落についた。住民は逃げていて、川の綱の吊り橋はこわされていた。彼らはウェイクのすぐ背後…
來金山越えの話のなかでは、薫(トウ)必武からの聞き取りが一番おもしろかった。薫は五十代の知識人で、共産党創立メンバーのひとりだった。彼は山越えの模様を次のようにかたった。「われわれは明け方出発した。道はまったくなかったが、百姓たちがいうに…
朱将軍は、この時忙しくして、私に当時の話をする暇をつくれなくなったので、事情に詳しい人びとを紹介してくれた上、彼自身が書いた大切な文書類を貸してくれた。 私に話してくれたひとりの政治工作員は、一番苦しかった山越えはクーチョウだったと語った。…
この日々の命令は、朱将軍がその後の18ヵ月間に書いた命令、報告、書簡、論文なども同じだが、さまざまな種類の紙に書かれていて、中国・チベット境界地帯の、おくれた原始的な生活を雄弁に物語っている。荒っぽく四角にちぎった古い軍用地図の裏に書いたも…
地図で見ると大渡河から懋功――中央紅軍はそこで四川からくる第四方面軍と落ち合って、華北に向かう手はずだった――までは100マイル(161キロ)ほどしか離れていない。がそこに着くまでには7週間もかかった。 前方の氷河や雪のある山を越す準備に10日をついや…