モンゴルの留学生としてモンゴル語の講師をしてくださったCさんはそんなに若い人ではなかったので、多分研究者として来られた人だったと思う。
チンギス・ハンを中肉中背まで小さくして、温和な表情にした真面目で腰の低い男性だった。
仕事で多くの留学生と接していたので、モンゴル語の先生だからなんとなくモンゴルから来た留学生ととらえていた。
当時の私のモンゴルの知識は講演会などから得たお祭りのナーダムとかゲルという丸い家、ガウンのような服、草原を駆け抜ける馬とか、この程度の知識だった。
あるときCさんは中国からの留学生だという事実に接した。
それまでの見識では納得できなかったのだろう、確かめるためにCさんが忙しそうにコピーをとっている後ろ姿に「先生の国籍は中国ですか?」と尋ねた。
「はい、そうです」と手を休めず、ちらっと顔をこちらに向けて答えてくれた。
「じゃあ、中国語もできるんですか?」と続けて訊いた。
「あ、はい、そうです」と消えていくような声で返してくれた。
それまでモンゴルの政治的歴史的事情はほとんど知らなかったので、しばらく考えさせられるぐらいの驚きだった。
私はこういうことに気に留めやすい人間でもあった。
Cさんは中国の内モンゴル自治区出身のモンゴル族の中国人だった。
内モンゴル自治区では中国語とモンゴル語が公用語になっていた。
もう数十年もむかしの話になる。
Cさんに珍しいモンゴルのお話をしてもらうために小さな講演会を企画した。
新聞なども好意的に紹介してくれたので、当日集会室は予想を越える人が集まり、こちらは椅子を集めてきて用意するのが大変だった。
なんと名古屋から新幹線に乗ってこの講演を聞きに来た人もいた。
私が記憶する講演会で一番参加者が多かった。
講演を前にCさんも「モンゴルブームだから」といつもの小さな声でいったのだが、いつもの冷静な反応だった。
今こんな思い出を書くために1990年代初めがどうしてモンゴルブームだったのかと調べてみた。
相撲取りの朝青龍の活躍はもっと後なので関係ない。
1991年12月 旧ソ連崩壊
こういう劇的な歴史の転換期にあり、モンゴルが日本にとって身近な国になって行く出発点だったのかと思う。
それでモンゴルブームが創られてきたのかな。
朝青龍や白鵬などの相撲力士はみなモンゴル国出身で、Cさんとは違う。因みにモンゴル人は2つの地域を北モンゴル、南モンゴルと呼ぶとのこと。
Cさんはモンゴル語講座では縦書きの試し書きのような珍しいモンゴル文字も教えていた。
この文字はモンゴル国ではもう使われていない。
これって民族分断の一つになるのでは?
一口にモンゴルといっても、歴史的に見れば複雑で奥が深い。
振り返ると、1990年代初頭のモンゴルブームはCさんにとってはちょっと距離を置いて眺めるものであったかも知れないと思い出している。
しかし、中国語とモンゴル語を自由に話せるのは貴重だ。
複数の言語を話せる方がこれからの時代何かと便利だと思うので、よかったようにも第三者からは見えた。
現在中国では教育現場でこの民族固有の言語をどう扱うかということで複雑な問題がありそうだ。
詳しくはわからない部外者としては、ただ尊重されるべきものだとしかいえない。