Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

アジア図書館とベトナム語

私がアジア図書館で働き始めた頃のベトナム語教室の講師は難民の男性Sさんだった。

いわゆるボートピープルと呼ばれる形でベトナム戦争後の社会を出国し、非常に危険な航海途上で救出され日本に難民として入ってきた人だった。
1990年頃だから、難民として日本に入国して、日本での生活にも慣れてきた頃だった。

この方は生徒さんから人望があった。

その後しばらくしてさらに別の国へ行かれたと聞いた。

 

インドシナ難民なんてもう最近は聞かないことばだけれど、1975年頃にベトナムラオスカンボジアインドシナ三国が社会主義体制に変わった際、その新体制になじめないとか迫害を受ける恐れがあるとかで海路で国を脱出した人達だった。
最近は、フェースブック創始者の夫人の経歴を読んでいるとき久しぶりに難民ということばに再会した。

アジア図書館で働いたことによって、ラオスカンボジアの難民とはまったく会う機会はなかったが、ベトナムの難民は何人かと会う機会はあった。

 

いろいろな情報に接して見ると、それぞれの国に華僑がいたし、ベトナムラオスカンボジアでは文化と顔つきも言葉も文字も違っていて、インドシナ三国という言葉ではくくれない複雑な事情を感じたものだった。


ベトナムが一昔前は日本や韓国と同じように漢字文化圏の国であることはあまり知られていなかったように思う。

実際に接すると、基本的に勤勉であり、教育を尊ぶ傾向は儒教の影響を感じた。
そのせいだろう、本国で大学を出たり、また日本の援助団体の協力で日本の大学で学ぶ向学心の強い人たちが多いと思った。

傍から見ると、いわゆるキン族のベトナム人ベトナムに住む華僑の人たちの違いはわからない。

ご本人たちはわかるようだが、ベトナム難民という一括りでは捉えられない確執もあったように当時は感じた。

ベトナムといへば、ベトナム戦争の悲惨なイメージがどうしてもつきまとうので、講師を囲む生徒さんたちは他の教室にはない独特の暖かさと社会的関心を持っていたように思う。
 

当時韓国の留学生にベトナムという国に対するイメージを訊いたことがある。

国が分断したり同じ民族同士で戦争をしたという似たような悲劇を経験した国として、親密感はあるという内容を語っていた。

その時の韓国人の「ベツナーム」という英語らしい発音といっしょにずっと耳に残っている.

 

私は韓国語をもう少しブラッシュアップする必要性があったにもかかわらず、一人の生徒としてベトナム語教室に席を並べた。

未知の言語に挑戦したかったことと、難民やベトナムという国に興味があったからだった。
しかし縁あって教えていただいた講師の先生はベトナム人留学生の夫人で、目に深みがある美しい人で、日本社会から好感を持って受け入れられる立ち居振る舞いをする気品のある女性Kさんだった。
第一印象は小柄な黒髪のフランス人だった。
 
Kさんはベトナムの民族楽器の琴を演奏する人でもあり、小さな国際交流の場で活躍されていた。

細身の身体に身につけた民族衣装(チャイナドレスとパンタロンに似ている)と、小さなベレー帽のような紙飾りをつけたあでやかな姿で登場されると、ためいきが出そうだった。
統一後のベトナムで音楽教師をなさっていたので、教え方も上手で堂々としていた。
声調が多いベトナム語は私にはむずかしい言語で終わってしまったが、「人が変わった」ようにきびしい顔をして真剣に教えていただいた思い出は残っている。

「マー」という発音を上向き、下向き、まっすぐなどの発音方法は慣れても、頭の中でSの形を描くように「マ〜」と発音する声調に個人的にはしんどかった。

アルファベットの文字自体に声調マークがつくので、タイ語よりはとっつきやすかったとは思うが。

 

さて、Kさんがたまたまアジア図書館でベトナム難民の男性と会ったことがあった。

気まずいのかなとちょっと心配したが、すぐに打ち解けて、お二人とも目を輝かせて故郷のベトナムの思い出話をされていた。

抑揚のある早口のベトナム語で、まるで鳥のさえずりのように聞こえたものだった。
 
私は、統一後のベトナムで生きていくことに困難を感じて出国した人と、新たな社会で生きていく場を見出していった人を同時に見ていたことになる。
二人に共通しているのは、人としての良識とベトナム人として誇りを持ち、政治、イデオロギーにさほど熱くならないことだと思えた。
 
日本で微妙な立場の違いを越えて、はにかみながら話すお二人の姿を思い出すことができる。