マレーシアの国語であるマレー語クラスの講師になっていただいた方は数人記憶しているが、偶然どちらも女性の方だった。
言語的にはとてもよく似ていいるインドネシア語の講師がみな男性だったこともあって、今でもマレーシアには女性のイメージを持ってしまうのが困りもの。
マレーシアで大学卒業後さらにスキルアップするために来日したRさんは、ずっとベールで「尼さん」のように髪の毛を隠しておられた。
時にはベールではなくて、毛糸の帽子をすっぽりかぶっていた。
つまりイスラム教圏内の慣習を日本でも工夫して実践しておられた。
外交的な性格で体型もふっくらして、初対面ですぐ好きになるタイプとお見受けした。
こんな文章を書いていると、ますますマレーシアに行って、この女性ともう一度会ってみたい気持ちが募る。
私は当時に比べたら、肩の荷が軽くなりすっかり抜け殻のようになってしまったが、彼女はひょっとしたら政府関係の仕事でしっかり活躍されて引退しているかも知れない。
庶民的で器の大きい頼もしい女性だった。
イスラム教では一夫多妻制で男性は4人の女性を娶ることができるのだが、なんと彼女は第二夫人だった。
このお話はここまで。
彼女は当然ベール姿で電車に乗ることもあり、ある年配の男性乗客が近づいてきて、尼さんと間違えたのか、アルコールが入っていたのか、手を合わせて頭を下げていったことがあるというエピソードをおもしろおかしく語っていた。
一度アジア図書館の会員向けの会報に顔写真が小さく載ったことがあった。
電車の中で男性が一人近づいてきて、「会報であなたのことを知っている」といって挨拶してくれたことをうれしそうに語ってもいた。
イスラム教といへば、「ラマダン」ということばをご存知の方は多いと思う。
このラマダンは「断食」のことではなく、日の出から日没までのあいだ断食をする月名のことである。
まったく食事をとらないことだと思っていたが、そうではない。
正しくは日没から日の出までの間に一日分の食事を摂るそうだ。
重労働者や妊婦、産婦、病人など体調不良者は免除されると聞いたが、敬虔な信者は断食の間は自らの唾も飲み込まないそうだ。
どうしてこんなつらいことをするのか。
一種の宗教的な試練をラマダン中には世界中のイスラム教徒が実践することで、一体感を共有することになると理解していた。
あるときRさんは打ち合わせをしているとき、日没の時間が来たことを確認して、かばんからタッパーウェアのような容器を取り出して、いっしょに食べましょうといってすすめてくれた。
中には角砂糖の形をしたごはんの塊(?)だった。
断食明けによく食べるものらしい。
Rさんはほんとうに敬虔なイスラム教徒だった。
「ちょっといいですか」といって衝立の中に入り、持参していた白い服を上からさっと被り、床にすわれるだけの大きさの敷物を敷いて、その場にしゃがんでメッカのある方向にお祈りをしている姿を見たこともある。
イスラム教にはあまりいい印象を持っていなかったので、認識を新たにしたものだった。
日本のゆるい宗教環境から見れば、中華系のマレーシア人以外=イスラム教徒という枠組みは窮屈そうに見えたのだが、仏教やキリスト教と同じように宗教であって、イスラム教そのものは別段過激なものには思えなかった。