Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

アジア図書館の本 ー『偉大なる道』ー

「これは、中国人民解放軍の総司令官朱徳将軍の生涯の、六十歳の時までの物語である」

 

で始まる、アグネス・スメドレーが実際に朱徳から聞き取りをして、アメリカで編集し、日本で阿部知二の翻訳で1955年に単行本として出版されたこの本がずっと好きだった。

 

アジア図書館がすべての蔵書を一覧できるように配架していた時期に、中国コーナーの天井に近い棚の上に納まっていた。

わざわざ台を持ってきて手に取るまでは時間はなかったので、とうとう眺めるだけで辞めてしまった。

 

記憶では全体に変色した単行本だったので、1955年に発行された本が、中国に関心を持った読者の手をへて、アジア図書館にやってきたことになる。

アジア図書館という場ではいろいろな本や文章に出会ったので、きっとこの本を推す真摯な文章を目にしたのだろう。

だから、アメリカ人女性が書いたこの本のことを気にかけていたとふりかえる。

用事があってその棚の近くにくると、見上げたりしたものだった。

その頃は朱徳のことはほとんど知らなかった。

 

実際に読んだのは、子育てが落ち着いた頃だった。

この本をアカやマルクス主義者、共産主義者というレッテルを貼って避けるのはもったいないぐらい、中国の貧農の生活ぶりが細かく記録されていて、この種の歴史的記録文書として貴重な証言集だと思う。

直接農民から聞き取りをしているのだから、他には見当たらないだろう。


ラジオなど何もない時代、農民がどうやって外の世界の情報を得たかも、毎年定期的に泊まっていく職人がもたらしたとわかって興味深かった。

たぶん東アジアの農耕民族の暮らしは似たようなものだったろうと想像した。

もちろんひとりの英雄史、男性史としても面白く読めた。

 

ベルギー人の母と中国人の父をもつハン・スーインが、動乱の中国の現代史を家の歴史を絡ませてみずからが書いた「自伝的中国現代史」シリーズも、興味深い本だった。

この本は、当時の中国の特権階級の生活ぶりを通して、中国の近現代史を読者にわかりやすく解説している。
生い立ちから受けた自らの傷口を癒すために書かれていて感動する本だった。

この本は同じ女性ということもあって、大好きな一冊だった。

 

『偉大なる道』はハン・スーインと同じように客家出身ではあるが、貧農で本来ならば教育を受ける機会なんてないはずの朱徳から、アグネス・スメドレーが聞き取りをしていった記録になっている。

まだ革命途上にあった。

 

「あなたが農民だからです。いまのお国の十人の中の八人は農民です。しかも一人も、世界に向って自分のことを話さなかったのです。もしあなたが私に身の上話をして下さったならば、ここにはじめて農民が口をひらいた、ということになります」


とスメドレーから申し出を受けても、朱徳は最初はことわっている。

 

「待ちなさい。もっと眼を広くして、色々な人に会ってから決めなさい」と。


そして他のもっと劇的な人生をおくった人物たちを勧められた。

しかし、アグネス・スメドレーは「中国の農民は劇的ではないのだ」と思い、朱徳からの聞き取りを固執した。

彼女のいってることは正しく、農民しかも貧農の記録なんて過去においてなかったのだから、これは彼女の洞察がするどかった。

 

それとこの本の魅力は、女性しかも文化背景の違うアメリカ人が聞き取りをしているところだ。
男対女ということで、多少の照れや遠慮も働いただろうし、互いに共感するところもあり、この組み合わせは他にないのではと思っている。

 

出版に際しても、アメリカではその頃マッカーシー旋風がアメリカ全土を覆い、彼女の本は危険な書物として一掃された。
彼女自身の生きる場も追われるような状況にいた。

 

ところが、日本では雑誌『世界』に翻訳が少し試しに連載されると高く評価され、連載が続き、出版までされ、朱徳の半生記が日本人には読まれることになった。

誰からも好まれる周恩来とはまた違った意味合いで、朱徳に敬愛の念を抱く日本人は多かったと思う。

私は一番あとからこの日本人の列に加わったことになるかも知れない。

 

アジア図書館の蔵書の中でアジアを知る1冊を選べといわれたら、人によっていろいろな読み方ができるこの本を挙げると思う。

話しはそれるが、北京オリンピックの開会式のイベントでは漢字の誕生あたりから表現していて、さすがに中国だと気よく観ていたが、毛沢東はもちろん朱徳たちの長征など建国の苦労がまったく触れられてなくがっかりした。
ここを無視したか……
かわいい女の子の口パク問題より残念で覚めてしまった。

ひょっとしたら、根っこはいっしょの問題だったかも知れない。


ということで、アジアで圧倒的多数だった農民の生活を描き、欧米列強や日本にあれだけむしばまれた国を再建するために、半生を革命に捧げたひとりの英雄史として出版できた奇跡に感謝する。