Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

気高い娼婦たち

若いころ観た映画や読んだ小説の中に出てきた娼婦たちのことを、思い返してみた。
もう数十年前の記憶なので、内容はあやふやだし、記憶違いが多いかも知れないが……。

文芸作品に脇役として出てくる娼婦たちは、当時の上流階級の紳士淑女からも庶民の女たちからも蔑まれてきたが、魂の純粋さ、勇気、凛とした生き方をもつ、心やさしい人物として描かれていることもある。

まずはドストエフスキーの『罪と罰』に登場するソーニャ。

家族の誰かが病気で、幼い弟や妹がいて、その結果家が貧しい。
家族を救うために娼婦をしていた。
自己中心的な哲学に基づいて金貸しのお婆さんを斧で殺した主人公を、改心にみちびいた女性である。

「あなたは罪を犯している」といって自分の小さな十字架をわたす。

苦悶の末、主人公が警察へ出頭するときに、あとから静かに心配しながらついていくシーンが印象に残っている。
確かこのふたりは流刑地シベリアへ行くことになって終わったと思うが? 
どこで出会ってどうなってという展開はもうすっかり記憶から消えているが、小説の中とはいえ、こういう女性がいたことをおぼろげに思い出せることが癒しになる。

 

続いて、娼婦といえば、この女性が忘れがたい。
モーパッサンの短編『脂肪の塊』の主人公。

当時のフランス社会の縮図と思えるようなメンバーが、たまたま国境を越える乗合馬車に同乗するが、途中吹雪か何かで立ち往生する。

そのうえ、敵側の将校(?)が娼婦の存在に気づき食指が動く。

いろいろあって、ついに娼婦の決断次第で他の乗客の運命が決まるというところまで追い込まれる。

このあたりの構成がうまい。
で、行儀のいい紳士淑女たちは、彼女が持ち込んでいた籠いっぱいの食料で飢えを助けてもらっているのに、「娼婦でしょ」っていう感じで冷たくあしらう。

リベラルな議員も乗っていたが、情けないぐらい何もできない。
彼女は、身を売ることは職業だから何とも思っていないが、敵側に身を売ることはできないと彼女なりの愛国心と誇りを発露する。

モーパッサンは、この作品で当時の紳士淑女の上っ面をはぎ取ったように思える。
この作品好きなんだけれど、あまりにも結末が物悲しくてつらい。
誰か彼女のためにあの続きを書いてあげてほしい。
もう1つ別の短編でも信仰心の篤い娼婦を扱っているはず。

次は『風と共に去りぬ』に出てくる酒場の女主人ベル・ワットリング。

高級娼婦と記憶しているが、そうでないかも知れない。
しかしいずれにせよ似たような社会的偏見にさらされていたはず。

彼女は、あのレット・バトラーの元愛人で、息子を一人生んでいて、手元で育てることができないので預けているとわかるような叙述があったと思う。

やさしい母親でもあった。
彼女が、南北戦争の時代、稼いだお金の一部をメラニーという信頼できる女性に秘かに南軍のために使ってほしいと託すシーンがある。

表立って寄付という行為ができない自分の立場をわきまえて。

 

ちなみに作者マーガレット・ミッチェルはこの作品の映画化が決まったとき、ワットリングという姓が当時アトランタの町に存在していないことを調べさせた、という裏話を読んだことがある。
存在感があるが、汚れ役ということで、作者の気遣いがわかる。

最後に、小説は読んでいないが『緋文字』にも娼婦が出てくると思う。

映画をさらっと観ただけなのだが、女主人公が姦淫の罪で公で裁かれるのだが、村の娼館を経営する女主人が「村の男はすべてここの客よ」とつぶやくシーンがあって小気味いい。

社会の不正義を見抜く目を持っていた。

詳しくは知らないが、『五番町夕霧楼』に出てくる女性もそのような類の娼婦になるかな?

 

探せば、もっと他の文芸作品にも気高い娼婦が存在するかもしれない。
男主人公の単なる背景でちょっと絡む存在ではなく、人格を持った人間として。
生きていくために仕方がないので身は売るが、自分を成り立たせている根っこのところは売っていない、こういう娼婦は味わいがある。

一方、この対極にいると私が思えるのが、お金のために或いは今ある地位を守るためにまたは自分を守るために、良心や理性を売っている人。
キリストを売ったユダなんかは典型か? 

人生いろいろ。
会ったことがない人はいないんじゃないかな。
どこにでもいる。

目の前でリアルに「売心」するシーンに遭遇したこともある。

こういうときは人間不信に陥る。

そうなりたくないなら、人間は弱いので、背伸びすることを戒めるしかないと思っている。

案外こういう「売心行為」も、表舞台に出ないところで歴史を動かしてきたのではないか、とふと思うときがある。