Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

福島から避難してきた女性の話

東北の大震災後まもなく下記の動画を見たとき、自分もやりたいとひそかに思っていたライフスタイルを実践されていて、こんな女性いるんだわ、と感心したことを覚えている。


私が現在畑で野菜を育てる生活をもっているのは、この若い女性の影響も少しあるので、忘れがたい。

しばらくして、別の動画でインタビューされている彼女も見たのだが、飾り気のない語り口をもつ魅力的で、か細い女性がそこにいて、かなりやつれているようにも見えた。
避難後、こんなにも涙が出るものかと思うぐらい、悲しくて毎日涙を流し続けた、と語っていた姿が印象に残っている。

あと、当時彼女は風邪をひいて、実は体調も悪かったことを知った。

さらに彼女は避難先で地方議員になったことまでネットで知った。


1911年4月24日に行われた「原発なしで暮らしたい100万人アクションinヒロシマ」という屋外の会場での若い女性の講演内容。
彼女がどんな生活を福島で築き、置いてきたか。

震災当時比較的安全な西日本にいたので、何かやれることがあればと思い、この女性の感動的な話を文字に起こしてみようと思いついたのだった。
震災からまだ2ヵ月しかたっていない頃だった。

 

(文字おこし開始)

3月11日まで福島県双葉郡川内村の住民でした。
今30キロ圏内の丸のなかにすっぽりはいるところです、川内村は。

12年前、1999年から自給自足の生活がしたいと思いまして、選んだ農場がたまたま福島県でした。
とてもそこに惹かれたので、岡山から研修にきました。
そしてその後、東北の美しい自然が気に入って そのままそこに住み着くことになりました。

住み着いた場所は、電気も電話も通じていない、もちろんガスや水道も通ってない山の中でした。
そこにまず自分で小さな小屋を作り、田んぼや畑でお米や野菜を育てて暮らし始めました。
そのあとで村の大工さんと知り合って、大工になりたいと思っていたので、4年間大工修行をしながら、田んぼや畑を作るという暮らしをしていました。

そのあとで横浜で設計士をしていた夫と知り合って、今度は二人で大工を卒業した後で、自分たちで20坪ぐらいの木と土壁の家を作りました。

新しく作った家には夫が電気がほしいといって、ソーラー発電を取り入れました。
電線が来てないところなので、ここと同じシステムです。
畑にパネルを置いて、そこから出来た電気をバッテリーにためて、そこのバッテリーに入っている分だけを使いながら生活する。
だから曇りや雨が続くときは、ちょっと電気を抑えながら暮らすという、お天気に合わせたような暮らしをしていました。

そこはとても自然が美しい所で、場所が気に入ってすみ始めたんですが、住んですぐ原発が20キロのところにあると気づきました。
そして、チェルノブイリで起ったことを本で読んで、その「こと」の大きさということがわかって、そこに住みながら自分にできる行動をとってきました。

 

そこの川内村原発城下町と呼ばれていて、経済を原発関連の仕事についている人

がたくさんいました。

また村としても助成金をたくさんもらっていました。

そんな中で「原発が危ないよ」という声をあげることはタブーのような、ちょっと重い空気を感じてました。
それでも村で住む人たちは、肌で原発が危ないということを知ってました。
なぜなら、原発に働きにいった人が病気で亡くなるからです。

私と同じ部落に住んでたおじいちゃんおばあちゃんには、大事な一人息子がいました。
その息子さんは若いときに亡くなりました。
かれの仕事は原発関連の仕事でした。
また2年ほど前、村で人一倍元気な、村づくりにほんとに貢献してた、いいおじさんがいたんですが、その人があっという間に急病で亡くなりました。
その方も仕事の一部で原発関連の下請けの仕事をしてたことを知ってました。

そんな話しをいくつも聞きながら、住んできました。
村の人たちは「危ない」って気がついてたけれど、その……そうですね……、いらないとはいえない状況にありました。
そんな中で私はもし、もし原発で働いる人が同じ電気を作る仕事だったらば、ソーラーパネルを作る工場だったらどんなにいいだろうか、燃料電池リチウムイオン電池とかそんな新しい自然エネルギーの工場だったらどんなにいいだろう、同じ電気を作る仕事でそう思っていました。

そんな中、3月11日地震が起こり、今まで心配していたことがほんとうに起こってしまいました。
地震震度6強だったので、家はずいぶん揺れたんですけど、私が建てた家はうまく揺れてくれる家だったせいか、あまり被害がありませんでした。
そして、割れたものを片付けたぐらいで、あとはもともとライフラインがないところですから、停電することもなく、自分たちで掘った井戸からくみ上げて、五右衛門風呂を薪で沸かし、薪をくべてご飯を作り、いつものとおり夕方生活を再開はじめました。

そこまでが、私が川内村で暮らしていた時間でした。

 

暗くなったころに、まず「冷却水ストップ」のニュースが、ニュースの中でほんのちょっとです。
すごく大きなことなのに、ちょっとだけニュースで聞こえました。
「何か起こっているんだ」と思いました。
それから1,2時間後、3キロ圏内避難指示というニュースが入ってきて、夫といっしょに避難しよう、何が起こるかわからないから、少し離れたところまでいって寝ようといって、パジャマを着せた子ども、5歳と1歳の子どもがいるんですが、子どもを車の後ろにふとんを敷いて乗せて、とりあえずの荷物、「とりあえず、とりあえず」って自分の身に言い聞かせながら、家を出ました。

そして40キロ離れたとこまで行って一晩明かし、次の日は100キロ離れた会津の辺まで行って、様子を見てましたが、いっこうに収まる気配はなく、水素爆発の手前のころでしたが、私はそのとき後ろに髪が引かれて、自分が住んでいたところはきっと大丈夫って避難を決められなかったんですね。
でも、夫は小さい子もいるんだから、絶対川内には帰れないから、離れようっていうんですね。
頭ではわかってるんです。
けど、心と身体が動かないんですね。
突然断ち切られて、自分の家から出てきて、しばらくぼーっと会津若松の町ですごした後、あるときに「あっ、そうか、私が住んでたあそこにも放射能が来ちゃったんだ」って認めた瞬間があって、とっても悲しくて。
それからとりあえず「しばらく滞在できる岡山の実家に帰ろう」と決めて、車で新潟をとおって3月13日に岡山に着きました。

今私が住んでいた川内村は全村避難で、村の人たちはほとんど、牛を飼っている人や鶏を飼っている人はどうしても離れなくて、少しは残っているんですけど、今川内村はからっぽです。
働き者の大工の親方も、春が来て種をまきたいお百姓さんたちも狭い避難所やビジネスホテルでこの春を迎えています。

きょう広島の町にバスに乗って入ったときに、「あ、そうかっ」て気がついて、ここは原爆が落ちたときに、やけどをして亡くなった人たちは、私はもう後に生まれて、その人たちは被爆者としてしか認識していなかったけど、8月6日のその日まで普通にそこに生活していた人たちだったんだ、という事実に気がつきました。

今、福島県で被災している人たちも、当たり前のように自分の場所でささやかな幸せな日常を送っていた人たちが、自分たちの土地を生活を離れています。
またそれは放射能は目に見えません、一見自分が住んで場所は何も風景が変わっていません。
少しだけ屋根は落ちていたりするんですけども、変わっていません。
その事実を認識することのむずかしさということも感じています。

人はお金がなくても、土と水と空気さへあれば生きていけます。
どんなに札束があったって人はそれだけじゃ生きていけません。
私たちの命を支えるものは、この大地と水と空気です。
その一番大切なものを福島県の人たちは奪われてしまいました。
これから5年、10年ずっと長い間どうぞ福島の人たちに思いを寄せて、関心を持って、そして愛を送ってあげてください。

それから、この教訓をエネルギーシフトへの明るいエネルギーに変えていけるように人がつながって、つながることからしか力は生まれないと思います、みなでつながって変えていけたらいいなと思っています。

(文字おこし終わり)
……

このあと1分ほど、彼女が取り組んできたフラダンスの紹介があったが、うまく聞き取れなかったので省略。
動画の中では、冷静に語ろうとする彼女の揺れる肩や息遣いが伝わってきて、観た人はみな彼女に好感をもつと思う。

関西なので、福井県原発で何かあれば、まず水がだめになるだろうから、次世代である子どものために避難しないとだめなのかなと考えさせられた。