「死者にことばをあてがえ」という詩は、1911年の震災後に放送されたNHK「こころの時代―宗教・人生―」の再放送の中で出会った。
今読み返しても、この詩から強くて心地いい緊張感をもらう。
若い頃から詩にはほとんど興味関心がなく、味わう方法がわからない表現だったのに。
詩を読むよりも、もっぱら散文か、もっと制約をうけながら凝縮されたことばを探し創意工夫していく短歌の方が好きだった。
今でもそれは変わらないけれど、詩の良さを発見したことはまちがいない。
番組は私にとっての「3・11」を語るシリーズということで、この放送の題は「瓦礫(がれき)の中から言葉を」だった。
1回聞いただけでかんたんに咀嚼できない言葉を、唇を噛み締めながら訥々と語っていたので、録画していてよかったなと思った。
「個」ということばを何度か強調する中で、「希望」ということばも口にしていたのが印象深い。
作者辺見庸さんが死者によりそう人間的やさしさと怒りを雄々しい言葉で表現し、時には神や仏の世界に挑戦的なことばを投げかけていくところにひかれた。
こういう詩はキリスト教世界に生きる人では作れないと思った。
もうひとつはジャーナリストと詩人の言葉が、一人の人間の中で共存できることの驚きだった。
この詩に出会って約9年になる。
辺見庸さんといえば、ジャーナリストで『もの食う人びと』の著者としてしか知らなかったので、詩人としての出演は意外だった。
病気をされて身体が少し不自由にしているように見えたが、創作への強い意欲を持っておられた。
出身地は被災地でもある宮城県石巻市。
原発事故のことばかりに気がいって、震災で亡くなった人や周辺の人への想像力が欠如していたことを秘かに感じとった。
「死者にことばをあてがえ」
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなるそれだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる
それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統(す)べない
かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその影から掬え
砂いっぱいの死者に
どうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者は
それまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者は
それまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畔唐菜はまだ悼むな
わたしの死者
ひとりびとりの肺に
ことなる
それだけの
ふさわしいことばが
あてがわれるまで