Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

朱徳から聞き取り開始 『偉大なる道』序曲ー3

 私はアメリカ民謡の一行を思い出した。「銃で物盗りする奴もいりゃ、万年筆でやる奴もいる」しかし私はそれを口にしないで、すぐに彼の生涯についてあれこれとたずねはじめた。ひとつの問いに対して、彼は訂正した。彼の出身は富んだ地主ではなく、四川省の貧農だというのである。のちにわかったことだが、彼の同志の中で、彼の生涯についてよく知っているものはごくわずかというか皆無だった。しかも彼や彼のような人物のことを、落ちついて書いて本にしようと考える余裕をもったものはひとりもいなかった。

 

 彼が話しているあいだに、私は彼の伝記を書こうと思いたった。だから、あなたは延安で何をしたいのかときかれたとき、


 「あなたの今までの生涯のお話をすべてききたいです」とこたえた。

 「何ですと?」と彼はいぶかしげにたずねた。私はこたえた。

 「あなたが農民だからですよ。いまこの国の10人のうち8人は農民です。しかも今までひとりも、世界にむかって自分のことを語らなかった。もしあなたが私に身の上話をしてくださるなら、ここではじめて農民が口をひらいたということになります」


 「私の身の上話なんか、中国の農民や兵隊のよくある話しのひとつにすぎない」と彼はこたえ、「待ちなさい。もっと視野をひろげて、いろんな人に会ってから決めなさい」


 私は彼のすすめにしたがって、朱将軍よりも劇的で、偉大な文学を生む素材となりそうな生涯をおくってきたたくさんの人物にも会った。しかし、中国の農民の生涯は劇的ではないと考え、私は原案を固執した。1937年3月、私たちは仕事をはじめた。


 何ヵ月かがすぎていった。週に二、三日の夜に、朱将軍の話を書きとめていったが、私は仕事に自信をうしなうときもあった。彼は身分の低い文盲の人びとの中から出てきたので、参考になるような手紙、本、文献、または日記というようなものがなかった。日時についての彼の記憶はいつも正確というわけにはいかず、40歳をすぎるまでは、彼の存在は社会に記録されることもなかった。彼はきわめて多忙な人であり、幼年期の思い出などはどうでもいいことのように考えがちだった。中国の家族主義、彼の軍隊生活、それから最後に共産党の訓練と生活が、彼をひとりの集団主義型人間につくりあげてしまっていた。だから、彼個人としてはいったい何を考えたり実践したか、いつごろから彼の個人的な問題から革命の問題を中心に考えるようになったかなどを正確に把握することは困難だった。