小さなテーブルをはさんで私たちがかけたとき、ろうそくの光は朱将軍のしわ深い顔にたわむれ、目はかがやき、この女が自分の生涯のどんなことをたずねようとするのかと好奇心に燃えている様子だった。
「最初からはじめましょう」と私はいった。
彼は話しはじめた。――新暦にすれば1886年12月12日に、四川省儀隴(ぎろう)県で生まれた。太平天国の乱が、清朝と同盟者である外国の力で弾圧されてから、ちょうど22年後である。彼は誕生日を陰暦でいったが、のちに中国共産党の新聞はそれを11月30日とし、さらに、彼の伝記に着手したある中国人作家は、何を考えたのか12月18日とした。ひょっとしたら、朱徳将軍は自分の正確な誕生日を知らなかったかもしれないが、とにかく彼が生まれたということに変わりはない。
幼い時にも本当の名はあったはずだが、生まれると同時に「子犬」というあだ名をもらった。というのは、男の赤ん坊の場合には、奪い取ろうと待ちかまえる悪鬼どもをだますために、動物の名がつけられるということである。女の子は値打ちなどないから、鬼だって相手にはしない。
「生まれてはじめての記憶は何ですか」と私はたずねた。
「つまらんことです」と朱将軍は答えた。
「そのつまらないことを話してください」と私はうながした。
彼は頭を垂れて、しばらく黙りこんで、握り合わせた自分の手を見つめていた。それから、ぽつりぽつりとつぶやいた――光と色と音、高い山々と森、「ひらいた私の掌(てのひら)」ほどの大きさでいいにおいがする野の花、「何マイルも四方ににおいをはなつ」ような花、太陽の光、川の流れ、それからかわいい子守唄。
彼の母親はその子守唄を歌うだけでなく、眉をうごかして芝居をして見せてくれたので、彼は大よろこびだった。
お月さんは眉みたい
お月さんの弓の両はしがぶら下がる
お月さんは眉みたい
お月さんは鎌みたい
この眉は、しかめっ面なんかしないよ
この子守唄は彼に喜びだけでなく苦痛もあたえた。――母親が彼にうたってくれるのはうれしかったが、のちに弟に歌うようになったのが悲しかった。それは自分だけのものと思っていたからだった。
彼の記憶によると、幼少年期には、ほとんど愛情というものを知らなかった。それで彼は「乱暴者」になってゆき、衣食住以外のことでは、ほとんど自分の力だけで生きなければならなかった。もちろん、母はかわいがってくれていて、きつい言葉で叱られた記憶はまったくない。だが、彼女は想像を絶するほど忙しくて、合い間に自分の乳を吸っている赤ん坊以外の子をかわいがる暇がなかった。そして、いつも赤ん坊がいた。
「私は母親を愛したが、父親は怖かったのでにくんだ」と朱将軍は自然なゆったりした口調でいった。「父親がどうしてあんなにむごかったのか、どう考えてもわからん」