Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

家族のこと 『偉大なる道』第1巻①ー4

母親のことを話すときには、朱徳将軍の顔には愛と悲しみの表情がただよう。母親は二十歳そこそこで彼を産んだ。彼女は、たいていの女たちよりも背が高くてがっしりしていた。着ているズボンと上衣はつぎだらけのぼろぼろで、手には太い血管が浮きでて、仕事のためにほとんど真黒になっていて、もじゃもじゃの髪がえり首のところで巻かれ、大きな褐色の眼はやさしく、うるわしげだった。


 「私は母親似だ」と彼はいう。「母親は全部で13人生んだが、男6人と女2人だけが生きれた。末の方の5人は生まれるとすぐに水に入れて殺した。家が貧しく、そんなにたくさんの口は養えなかったから」

 

 いちばん上の子は女で、チュオ・シヤンといったが、てん足をされるときには、何ヵ月も泣きつづけた。十五の年に嫁にいった。その次が長兄タイ・リーで幼いころ「小馬」と呼ばれ、その次がタイ・フォンで「小牛」だった。朱徳は4番目の子どもで、男子としては3番目で、名はタイ・チェンだった。男子はみなタイという世代名をもち、同じ慣わしで彼らの父やおじたちはシーという世代名をもっていた。

 

 朱徳は、4番目の子で三男だった自己を、「大きな家族のまっただ中に押しこまれたのだから、私は圧迫された人民の子だけでなく、家のなかでも圧迫されて、兄の用事を手伝ってかけまわらされたり、下の子のお守りをさせられたりした」といった。「私が生まれるまぎわまで、母親は米をたいていたそうだ。たけないうちに私は飛び出してきた。母親は、生むとすぐおきて、たき続けた。私には誕生日の祝の記憶はない。つまりそんなことはしなかったからだ。ひどい貧乏だったものだが、私たちは気にしなかった、というのは、地主をのければ、他のものもみな貧乏だったからだ」

 

 彼がいうには、母親は、「自分の名前がないほどみじめなものだった」娘のころには名前もあったのだが、嫁にきてからは、子どもとのつながりでは「母」、夫のつながりでは「次男の嫁」というように、家のなかの地位によってよばれた。いつもおなかには子がいて、煮たきし、洗濯し、つくろい、掃除し、水を運び、それから、男と同じように野良仕事にも出ていった。百姓女を嫁に選ぶには、しっかり働けるかどうかで決めた。愛情などは関係ない。嫁にゆくまえには、女は父親に支配され、嫁にゆけば、夫とその両親に、そして夫が死ねば、自分の長男にしたがうことになる。再婚は許されない。そのように、孔子がたてた古い封建の教えがおさえつけていた。