Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

朱の家 『偉大なる道』第1巻①ー6

 朱家は数多い「客戸(かくこ)」のひとつだった。ということは、彼らはよその地方から移住してきて、まだ八代になっていないので、はえぬきの人または郷土創建の家系と見られる権利は獲得していなかった。朱の一族の最初の一団は、白蓮教徒の反乱の直後、つまり18世紀の末から19世紀のはじめかに、はるか南の広東省からやってきた。その反乱と満州朝による制圧がこの地方の人口を稀薄にしたので、広東や広西の貧農たちが流れこんできて「客戸」となった。朱の家はすでに80年も四川に住んでいるが、まだ広東語を使い、広東の習俗をのこしていた。やっと朱徳たちの代になって、広東と四川の両方言を話せるようになった。

 

 朱家の最初の一団は金をたくわえて、ようやくわずかの土地を買い、家をたてることができた。そこは、儀隴県の馬鞍荘というところからさほど離れていない大湾という市場町のはずれだった。しかし、やがて地主や役人と高利貸しの略奪のために、その土地を抵当に入れてさすらい、あちこちの地主の小作になった。朱徳が生まれたときには、彼の家は地主丁の所有地を耕す60家族ほどの小作の仲間になっていた。その地主は「閻王」という名以外でよばれることはなかった。


 「閻王」から朱家が借りた3エーカーの土地は、段々になった山腹と谷で、ほとんど1インチきざみに手作業で入念に耕された。流れの早い小川の東に木々におおわれた山がそびえ、そのふもとの近くに彼らの家がたっていた。3,4の小作家族が近くに住み、朱家とともにリン・ロゥン・ツァイといわれる部落をつくっていた。市場町の馬鞍荘は2マイル(3.2キロ)ばかり北にあった。もう少しゆくと大湾の町があり、そのはずれに朱家の人びとが嘆きあこがれる祖先の地があった。さらに25マイル(40キロ)ほど北には、城壁にかこまれた儀隴県の町があり、そこは農民たちにとっては大きな都であって、そこを訪れたものはほとんどいなかった。朱家から数マイル西に、四川の名の元となる四つの川のひとつ嘉陸江が流れていた。


 朱家には三世代の家族が住んでいた。祖父と祖母、シーの世代名をもつ4人の息子たちとその妻子、それから朱徳が属しタイの世代名をもつ三代目である。

 

 二代目のなかで長兄として大家族の名目上の家長となっているものは、朱・シー・ニェン、すなわち長男であり、のちに「小犬」の養父となる人で、彼は「小犬」が生まれた時には37歳くらいであった。次男である朱・シー・リンは、「小犬」が恐れている父で、暴力と激情の男である。他のふたりの叔父については、朱徳将軍はほとんど語らなかった。また、自分の弟たちについても数えてみただけで、それ以上はふれなかった。朱家の長男である「小犬」の養父は、きまじめで野心的な男で、よく働き、しまり屋で、一銭一厘も生命がけでたくわえ、大家族のために計画的にそなえた。


 すべての農民家族と同じく、朱家は、飢餓からまぬがれるためのきびしい重労働を目的として組織された経済的単位だった。