Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

祖母のやりくりと暮らしぶり 『偉大なる道』第1巻①ー7

 「祖母が家全体の家計をやりくりし、指図した」と朱将軍が説明する。「祖母が、家族の男と女にそれぞれ仕事を割りあてた。野良の力仕事は男、軽い野良仕事と家事は女と子どもが分担した。祖母の4人の嫁は、順番で1年ごとに家族全体のための炊事番になり、小さい子たちがそれを助けた。ほかの女は紡いだり縫ったり洗ったり掃除したり、また野良ではたらいたりした。夜明けには、その年の炊事番の嫁がおきて火をおこし、朝食の支度をする。祖母が動きだす音を聞くと、みなが起きあがって、井戸からの水運び、薪割り、家鴨(あひる)や豚や鶏飼い、掃除など各自の雑用にとりかかる。

 

「食事は一年中同じだった。慣わしだったから、男はみないっしょに食べ、そのあとで女子どもが食べた。ひどい貧乏だったから、米はごく稀にしか口にしなかった。朝食は高粱(こうりゃん)のかゆだが、その中に米か何かしらの豆がちょっぴり入っていたかも知れない。それと、ありふれた野菜がでる。茶は飲んだが、もちろん砂糖は使わない。昼飯も晩飯もだいたい同じものだ。かゆの代わりに、高粱に米をまぜて汁気なしに炊いたものに、いろんな野菜を煮たものが一鉢、ときには二鉢でて、みなで食べる。釣り好きの兄たちや私がとっつかまらないで魚をとってきたら、ほうびに米が出るかも知れない。肉といったような特別な食べ物は、もし食べることができるとすればだが、――旧正月の祝だけに食べる。

 

 「四川では塩がとれるが、すごく高かったから、貧乏人はできるだけきりつめて買った。塩には3種類ある。金持ちのための白い粉になったもの、中くらいのもののために茶色のもの、私たち貧乏人のための、石ころみたいに黒く汚れたもの。塩はこの上ない貴重品だったから、料理に使ったりはしなかった。食卓の真ん中におかれた鉢の湯にとかして、みなは野菜をそれにつけて食べるか、やはり食卓の真ん中の鉢に、かたまりのままおかれて、みなはぬれた野菜をそれにこすりつけてから食べたりした。

 

 「祖母は仕事の振りあてをしただけでなく、めいめいの年齢と仕事ぶりなどをにらんで、食べ物の割りあてをした。食べることにも、個人の自由はなかった。みなはひもじい思いで食卓をはなれたものだった。私はいつもすきっ腹でそだった。だから、のちに革命運動をやったときにも、もう不感症になっていたのか、すこしもこまらなかった。歩くことだって同じだ。成人してからは馬に乗るときもあったが、ほとんど一生を歩いて暮らしたようなもので、一気に何ヵ月も何年も長距離を、指揮下の兵隊たちといっしょに歩きもした。

 

 「革命を成しとげたならば、われわれは国を開発しよう。人民は十分に食べて服を着て、汽車や自動車に乗り、文化的な人間になるだけの時間と精力の余裕をもつだろう……いや、われわれは、もっとも困難な状況のなかでも、われわれの文化を高めてゆくのだ」