Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

封建的不文律 『偉大なる道』第1巻①ー9

わずかな怠慢や油断もゆるされず、まわりの家同様に、朱家にも週の休日などは存在しなかった。身分の高い人びとは、旧正月には1週間から2週間くらい休息を楽しんだが、小作や貧農は正月さへ休めない。農民は、冬のあいだは少しぐらいのんびりすることができたが、そのときにも、春作のために土の手入れをしたり、種まきもしなければならない。夏のあいだに大きくなった豚や鶏は、塩と交換するために市場町にもっていかれる。畑の綿は摘んで打たれて、女たちがそれを紡いで糸にするが、織るわけではない。旅まわりをする男の職人が織る。それから冬には畑でとれた油菜から油をしぼるが、料理に使ったあまりは売られ、きわめて稀なことだが、木綿をより合わせた芯といっしょに皿に入れて夜の灯にすることもあった。朱徳は二十歳になってはじめて灯火を使った。また彼がひとりでひとつの寝床を占領し、自分の部屋をもったのは、学生としてはじめて帰郷するようになってからだったが、それもほんの数日間のことだった。

 

 さらに、古来の封建の不文律によって、小作の男女が地主のためにただ働きをさせられることが、正月やそのほかの国の祝祭のときや、地主の妻女や妾が息子を生んだというような場合や、巡回してくる役人のために宴会をひらく場合など数多くあった。そういうときには、小作人は地主のために何か特別な食べ物を贈るという建前にもなっていた。

 

 「地主にとっては、小作人どもがひもじい思いをしようが、地すきとか収穫とかで手がはなせないとか、知ったことではなかった」と朱将軍は怒りをこめていった。「家の男たちは出てゆかねばならず、私の母や養母までが、『閻王』の台所働きをさせられた。家に帰るときに、何か御馳走を服の下にかくして、ちょっぴりもって帰ってきて、子どもたちにも一口くれ、まるでおとぎ話みたいな土産話をしたりした」


 朱将軍がこういう調子でかたるとき、私はペンを動かさなくなることもあり、彼はいぶかしげに問いつめるように私を見た。


「どうかすると……」私は説明した。「あなたが私の母のことを話していらっしゃるような気になるんです。私たちは封建的地主のために働かされたのではないのですが、でも、母は、ときどき御馳走を子どもたちのためにくすねてきて、一口くれて、雇い主の家のすばらしい御馳走の話をしました。
母の手も労働でほとんど真黒になっていたし、髪もえり首のところで巻いていました。黒くて、もじゃもじゃした髪でした」


 「あなたのお父さんは?」彼はおどろいて私にたずねた。


 「私が幼かったころは、貧しい農夫でした。裸足で耕作しました。でも、たいていのときは革靴をはいていました。そういう生活をにくんで、何度も何度も母を置き去りにして家を飛びだしました。あなたの御家族の男の人のような鍛錬はできていなかったからです。のちには未熟練の日雇労働者になったようで、私たちはお腹いっぱい食べたことなどありません。でも、塩には不自由しなかったわ」


 「世界の貧しい民衆は、ひとつの大きな家族だ」と彼はしゃがれた声でいい、それからかなりのあいだ、私たちは黙ってすわっていた。