Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

旅職人が語る中国の歴史 『偉大なる道』第1巻②ー4

 毎年、それぞれの季節に旅まわりの職人が、街をはなれて、この大街道にやってきて、それぞれの専門の技能をもとめる家をたずねながら、村から村へとわたり歩く。大工、鍛冶屋、畳屋、機織(はたおり)など、みな腕のいい職人で、商売道具は自分で持ち歩いていた。秋ごとに畳屋が朱家にあらわれて、古畳をなおしたり、注文されると新しいものを織ったりした。畳は、冬には寒さをしのぐ敷布団の役目をするので、重宝するものだった。ダブルベッドぐらいの大きさで、かたく織り締められ、2インチから4インチ、またはそれ以上の厚みがあり、美しい模様が織りこまれていた。出来たてで、ま新しいときには、いい匂いがして、黄金色に光った。

 

 ひとりの機織りじいさん――朱将軍は、そういうかんたんなことばで呼んだ――は、冬ごとにやってきて、朱家の女たちが紡いだ木綿糸で布を織った。織られた粗布は藍で染め、長い竹竿にかけてかわかし、それから女たちは裁断して縫って、家族のための衣類、掛布団やその他さまざまなものをつくった。


 「こうした旅職人たちは、農民経済と切りはなせないものだった」と朱将軍は説明する。「大きな都市からくるので、農民よりずっとひらけていて、新しい思想をもってきた。民間の歴史家とすらいっていい人もいて、読み書きができる人もいた。彼らは仕事をする家に泊り、毎晩その家のものは、彼らをとりかこんで話をきこうとする。彼らはいった。『清朝はおれたちを洋夷に売りつけ、洋夷はおれたちを奴隷にしようとしていて、お前さんたち百姓がおさめる際限もない税は、洋夷への借金ばらいに使われたり、洋夷がしかけてきた戦争にこっちが負けたものだから、賠償金だなどといって取りたてられる。お前さんたちはひどい貧乏だが、それは運が悪いからじゃなくて、郷紳や貴人らが、ぜいたくに暮らし、税はみな人民の方にかけてくるからだ』とも職人たちはいった。私は、ぜいたくな暮らしとはどんなものかわからなかったが、とにかくちょうどおれたちの地主みたいに、何でも好きなものが食えて、きれいな服をきて、りっぱな家に住んで、雇い人に一切のことをさせることだろうと考えた」

 

 旅職人は中国の歴史のことをよく知っていて、ときには、19世紀に2回あったイギリスとの阿片戦争のことを物語った。この戦争でイギリスは中国の主権を突きくずし、当時としては桁はずれの賠償金をかけてきた。清朝は「ふるえてしまって洋夷に降参した」そして今は、機械製の外国の品物が本当に税なしで入ってくるので、中国の国産と職人の生活はぶちこわされてゆくところだった。また彼らは、四川にいる外国人宣教師たちは傲慢無礼で、おまけに改宗した中国人までがいっしょになって、中国の人民を軽蔑し、洋夷の神を信じないからといって、「邪教徒」という言葉で呼びすてるともいった。

 

 朱家のものは、「小犬」が生まれた年に中央四川で反乱の種をまいたフランスのカトリックの宣教師のことをそれまでにもきいていた。フランス人宣教師たちは、改宗帰依した中国人たちにまで治外法権を要求し、また、改宗者と非キリスト教の中国人が法廷で争うような場合には、フランス人は知県(県知事にあたる)を脅迫して、改宗者に有利に判決させた。それで政府がその知県をとらえて投獄して責め殺すということになり、それからその息子がたちあがって戦い、しかし彼もやがて捕えられて殺され、このようにして血なまぐさい反乱が終結したという事件だった。