Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

太平天国の敗残兵 『偉大なる道』第1巻②ー5

 年ごとに家にきた旅職人たちについて、朱将軍はいった。


 「彼らはのちの産業プロレタリアートの先駆者だった。だから、農民よりもひらけていて、独立的で、鋭敏だった」


 職人の中には、19世紀半ばの太平天国の乱について話すものがいた。それは、当時まででは中国最大の農民の反乱であり、キリスト教的色彩をおびていた点まで、3世紀前のドイツ農民の反乱に驚くほど似ていた。ところで、冬ごとに朱家にきた職人のひとり、あの「機織じいさん」は、かつて石達開がひきいる大平軍の兵士だった。石達開は、太平の首領中いちばん人気のあった人であり、客家出身の学者だったが、おのれの土地をふくめて一切のものを売りはらい、売上金をすべて大平軍におさめた。大平軍には客家が多かった。というのは、軍は南方からおこり、客家は華南の南部沿岸地方に多かったからだった。そもそも客家の郷土がどこであるかは正確には知られていないが、おそらく彼らは何千年も前の華北からの移民の子孫だろうといわれている。今も、独特の言語や風習をのこし、女たちの足はてん足されることはなかった。朱徳将軍の参謀の葉剣英将軍も客家であり、その他多くの兵士や将校もそうだった。

 

 冬ごとに朱家の布を織った「機織じいさん」も客家だったらしい。口のとげとげしい陰気なじいさんで、細長い織機を中庭におき、寒さがきびしいときには台所にうつして、織りはじめるのだった。

「小犬」は、褐色の手が光のように速く動くのをうっとりしてながめつづけた。日に20尺、つまり20フィート(6m)から30フィート(9m)の布を織ることができ、それに対して、慣わしになっている食事と宿泊は別にして、1尺につき2,3文を要求した。それだけ稼げばたいしたもので、1日働けば、1週間は食べていけることになる。

 

 機織じいさんの口は悪かったが、朱家の人たちは彼の話に飽きることはなかった。「小犬」は彼のそばにしゃがんでねだった。


 「機織のおじいさん、何か話してよ」