Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

民間伝承になった太平天国 『偉大なる道』第1巻②ー10

「農民たちは石達開が殺されたことを認めたくなかったのだ」と、朱将軍は悲しげにいった。「それを認めることは、希望を捨てることだった。しかし、実際は石は軍とともに清朝に降伏し、彼は成都で滅多切りにされた。身分の自由を約束された武装解除の兵士らは、みな殺しにされた。この私も紅軍の同志たちも、どこかで、蒋介石に投降していたら、同じ運命だったろう」


 四川総督駱秉章(らくへいしょう)の手記の、19世紀の60年代のところを調べているうちに、私は次のような簡単な記述を見つけた。


 「13日。4歳の子を連れてわが陣に来て、領袖や輩下とともに投降した。石達開及び3名のものは、25日に成都にうつし、磔刑(たっけい)をもって殺した。小児は、法によって裁判を適用し得る年齢まで、保留することとした」

 

 石達開の軍のうち、まだ戦闘力をもっていたものはわずか4千だった。ほかは、餓死にひんしていたが、勝手に死ぬだろうと放置された。4千は大樹堡の町に追いこまれて、総督駱秉章の手記があっさりと語るには、「1863年6月18日の夜、烽火(ほうか)の合図とともに、片付けた」1年後の南京では、不屈の農民指揮者李秀成の大平軍本部隊が、もっと残忍な運命に出会うことになる。

 

 後世の人たちは、太平天国については、二派の文献の影響をうけた。支配階級は、官許の文献に教えられて、曽国藩を偉大な英雄的政治家とし、彼が征服した大平軍は、2百万人を殺戮し国土を荒らした無頼無法の徒となった。一般人民、つまり中国の人口の80%以上のものは、民間伝承や地下にもぐった民間文学につちかわれたが、それらは、大平軍の人びとを、貧しく虐げられたものを救う英雄としてえがきだし、それを征した満州賊と洋夷をにくんだ。後年の中華民国の父となった孫逸仙は、反乱がつぶされた直後に、南部の貧農の家に生まれたのだが、後者の文学によって養われた。はるか西の地の朱徳たちも、またそうだった。

 

 64年後に朱徳毛沢東が創建した中国紅軍が、太平革命を熱心に研究して、その過失をくりかえさないようにしただけでなく、その法や戦術の多くをとり入れることまでしたということは偶然ではなかった。紅軍の後身の中国人民解放軍が、太平革命が敗北に帰したのち85年目に、ほこらかに北京に入城したとき、鹵獲(ろかく)のアメリカ製戦車その他の野戦兵器の鉄板には、「八項注意」がかがやかしくしるされていたのだが、その中には偉大なる大平軍のものがそのまま生かされているものもあった。解放軍はいう、太平軍の反乱は中国のブルジョア民主主義革命の起点となり、その太平がはじめたことを完成することこそ、わが軍の歴史的使命であると。