Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

華南の上帝礼拝集団 『偉大なる道』第1巻②ー11

 われわれは、太平天国の壮大な悲劇に近づいてながめるときに、一種の畏怖のようなものを感じる。その反乱の兆しが1847年におこるはるか以前に、中国の情勢は、しだいに満州朝の専制への反抗の気運を高めてゆきつつあった。1839年のイギリスとの第一次阿片戦争は、むごたらしい敗北と1842年の南京条約になり、中国を半植民地の境涯におとしいれ、そのことはまた、ぶすぶすと燃えていた反逆の火にたき木を加えることになった。戦後には華南に大飢饉がやってきて、匪賊海賊の横行となり、大量の餓死をもたらしたが、満州朝は抜身の剣以外の解決策はもっていなかった。

 

 その混沌たる災厄の渦のなかに、ひとつの新しい要素であるプロテスタントキリスト教が入ってきた。中国人は福音書を読み、まずしく虐げられたものの平等と友愛ということを、彼らの身に引きうつして解釈した。このキリスト教運動を外国人宣教師たちは、はじめは中国の新時代のあけぼのとたたえ、のちにそれが外国帝国主義既得権益と衝突するようになると、非難し裏切るのだが、事のはじまりは華南の目立たない運動だった。1847年に、学校教師の洪秀全という人物が、広東のアメリカ系バプティスト教会で何年か勉強したのちに、生まれ故郷の村に帰った。自分の家族や隣人たちの改宗受洗をしたのちに、洪と新改宗者たちは上帝礼拝の熱心な集団をつくり、それが数年とたたないうちに、華南一帯の農民のあいだに蔓延していった。満州朝は、ただちにこの上帝礼拝の群れを、破壊思想の秘密結社と決めつけたので、キリスト教徒たちは、私兵団を組織して対抗し、まもなく弾圧のために送られてきた官兵と衝突してたたかうことになった。

 

 闘争が激しくなるにつれて、多くの古くからの反満秘密結社が反乱軍の旗のもとにあつまってきた。学識才能のある人びとも、新しい信仰と満州朝の暴虐への憎しみから、ここに加わってきた。そのひとりが、富と教養にめぐまれた若い客家の地主、石達開であったが、彼は一切の財産を売り、その金をキリスト教徒の私兵団を正式の軍に組織するための基金として提供し、その軍は大いなる平和の軍、つまり太平軍と呼ばれることになった。その軍旗、士官の上衣はともに紅かった。1851年に組織されてから2年後には、この軍は大洪水のように全華南を併呑(へいどん)して、南京に太平天国をたて、北京を脅かす存在になった。