Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

太平天国の最期 『偉大なる道』第1巻②ー13

 1964年の7月、石達開と彼の軍が西部の大渡河で敗北してから1年後だったが、満州朝と地主の連合軍は、英国人チャールズ・ゴードン指揮の「常勝軍」とよばれる外人傭兵部隊といっしょに、曽国藩の総指揮下にはいり、南京の城壁をやぶり、三日三晩、太平の男だけでなく女や子どもまですべて惨殺し、ついに30万のものが、おのれの血の海の中に没した。太平の第一の首領洪秀全は直前に自殺したが、その死体は掘り出されて犬に投げあたえられた。とらえられた太平の領袖たちは首を切られ、忠誠と節操によって「忠王」の名をえた指揮官李秀成も、とらえられ曽国藩のもとに送られ、深夜に殺された。

 

 外国人ではただひとりの英国人A・L・リンドレイだけが太平天国のためにはたらき、忠王によってイギリスに送られ、彼らにこの反乱の真相を告げようとした。1866年に出版された2巻の歴史書の中で、リンドレイは痛烈にキリスト教列強の「おのれの信教への真黒な反逆」を責め、ただ自分が祈ることができるのは、イギリスが「近代アジアの最初のキリスト教運動を圧殺した罪の報いを受けなければいいが」ということだけだと宣言した。そして、打ち倒されたが破壊しつくされたのではなく、太平は、やがてまた「不死鳥のように、彼らの栄光の灰の中から」立ち上がるだろうと予言した。

 

 共産党の他の指導者たちと同じように、朱徳将軍は太平革命を熱心に研究した。彼はこれを王朝への「乱」といわず「革命」とよんだ。というのは、それは根本的な社会改革をめざし、「最初の中国ブルジョア民主主義革命の口火となり」、つまり封建制または半封建制を敵として民族の独立のためにたたかう革命だったと考えたからだ。英国人リンドレイとは意見を異にして、彼はこの革命のもつ宗教色はただ偶然のものに過ぎないとみる。中国でのほとんどすべての社会動乱は、過去のヨーロッパの類似の動乱と同じように、宗教的な色合をおびると彼はいう。太平は、土地を分配したり、衣食その他の生活必需品を平等に分配する場合もあった。アヘン、酒、タバコを禁じ、できる限りの女性の解放をおこなった。てん足を禁じたが、これは太平の多くの指導者たちが客家出身だったことを反映しているからだろう。寡婦の再婚をゆるし、女が国家試験に男と競争する権利をあたえた。大平軍の中には女子軍もあって、男の兵士同様に高度に訓練され、きわめて道徳的に行動した。


 革命が挫折した原因は、農民を完全に組織して、農地改革を最後まで押し進めることに失敗したことにあるが、首領たちが仲間内の殺し合いに巻きこまれたことや、多くの戦術上の失敗をおかす一方、革命を指揮すべき政党組織を発展させることができなかったことにもよる。上帝会というのは政党ではなくて、キリスト教道徳の組織であり、さまざまな社会改革の目的をもってはいたが、それを実行するまではいたらなかった。


 キリスト教精神の多少の刺激によって、太平は、封建的儒教偶像崇拝、祖先崇拝などを敵としてたたかうことになったが、このことは貴人、商人、読書人階級、地主などからなる敵に、迷信力を総動員して反撃する機会をあたえた。とにかく太平の過誤と弱点にもかかわらず、彼らは中国国民の革命史の英雄的な1ページになり、大衆の心に二度と消えることがない火を点じた。