Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

太平天国からの学び 『偉大なる道』第1巻②ー14

 朱将軍は、英国人A・L・リンドレイの文章よりも、断片的ながらカール・マルクスが書いたものの方が、太平革命を評価する上ではるかに重要だといった。当時、カール・マルクスは『ニューヨーク・トリビューン』紙のロンドン通信員だった。その新聞の、1857年5月22日づけの一論文で彼は主張している。この太平の反乱は「中国の民族性を保全するための人民戦争」であり、そして「人民戦争においては、反乱する民族がとる手段は、正規の戦争の法則と一般にみとめられるようなものや、または他のいかなる抽象的基準によっても、判定できるものではなく、反乱する国民が到達している文明度によって判定すべきだ」と。

 

 さらにマルクスは続けて「中国南部における外国人への抵抗闘争」の熱狂は、古い中国国家が遭遇している極度の危機意識を表象していると考えられるという。古い帝国の断末魔のもがきがおこりつつあり、全アジアに、新時代はひらけつつあるとも彼は言明する。

 

 さらに別の論文では、マルクスは、太平の人びとすら思いも寄らなかった驚くべきことを指摘した。つまり太平革命は「中国共和国の創建の産声」であり、すでにその共和国の門扉に「自由、平等、博愛」の言葉を記しはじめていると!


 太平は失敗したが、中国共産党はその過失をしっかり研究して、決して同じまちがいをくりかえさないと朱将軍はいった。太平が弾圧されると、中国は中世主義へと逆戻りし、さらなる貧困と国をあげての隷属の底無しの沼に沈んでいった。つづく数世代、農民の一揆は各地で燃えたったが、すべておのれの血の海におぼれ死んだ。朱徳が生まれるころには、太平が吸飲と取引を極悪罪としたアヘンは平気でもちいられ、外国が国民を屈従させるための武器にもなっていた。

 

 「わが国民は暗闇の中に生きていた」朱将軍はいった。

 

 「みなは運命を呪っていたが、出口を見つけることができなかった。何度も何度もたたききつぶされた。こういう蜂起の指導の任に当たるべきだった知識人階級は、下層民を軽蔑しながら、知らん顔をしていた。役人どもはすべて、農民にとってイナゴの禍と同じだった。金さえあれば、耳がきこえないものも口がきけないものでも、アホウでも悪党でも、位階と役目を買うことができた。私の子ども時代からずっと、役人は餓えた虎みたいに痩せて役所にやってくるが、出ていくときにはまるまると肥えている。『役人』と『税吏』という言葉ほどいまいましいものはなかった。

 

 「わが国民は百年のあいだ解放のために悪戦苦闘したが、最初で最大のものがこの太平革命だった。何百万の中国農民は今日でもまだ奴隷だ。今日のわれわれの革命は、人間を奴隷化するものとの戦いだ。太平ではじまったブルジョア民主革命を完成するところまで、つづけてゆかなければならない」