Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

家塾に入学 『偉大なる道』第1巻③ー4

 めでたい入学の日、それは1892年のことらしいが、その日が近づくにつれて、一家にはおごそかな雰囲気がただよった。3人の少年は、みなさっぱりしたズボン、上衣、円帽子、サンダルを身につけなければならなかった。頭のてっぺんは剃り、残った頭髪は洗って油をつけて、きれいな弁髪に編まれた。こうしてもはや「書生」の身分となったのだから、動物のあだ名は捨てられて、型どおりの「書名」(学問をはじめるときにつける名)になった。しかし、隣近所の人は尊敬をこめて、彼らを老大、老二、老三と呼んだ。朱徳は老三だ。「老」という語は、こういう風に用いられる場合は尊称だった。中国では、学問に対する古代からの尊敬の念が人びとの心に深くきざみつけられていた。

 

 入学の日は、夜が明けるはるか前に、家中のものが起きて、少年たちが顔を洗ったり服を着たりするのを見とどけ、また先生にはどんな場合でも服従するように諭したりした。師と弟子との関係は、親と子と関係についで大事なものである。朝食がおわると、3人の「老」と一番上の伯父(朱徳の養父)は、神聖な使命をおびたかのような心で門出した。一家のすべてのものは、彼らの姿が朝霧のなかに消えてしまうまで見送った。朱将軍は、あのときの自分をつつんだ深い厳粛な心情を、はっきりと思い浮かべることができる。

 

 学校には、彼らのほかにいろいろな年齢の16人の少年がいたが、みな小地主の息子だった。金持ちの息子はいなかった。というのは、大地主たちは自分の家に私塾があるからである。学校の16人の少年にとっては、百姓のせがれが入学した光景は、まるで3頭の水牛が経典を学びに教室に入ってきたようなものだった。百姓、苦力、職人は手ではたらく人間であって、頭を使うものとはされていない。だから、他の生徒に「水牛」とあだ名をつけられた3人は、まごついたり卑下したりしながら、何週間もなぶりものの苦しみに耐えつづけた。だが、とうとうその辛さに耐えかねて、タイ・リーはひとりの仇敵にかかっていってうち倒した。老二と老三は敵の加勢にきたやつらとたたかった。三老たちは体は小さかったが強かった。弱虫の地主の息子らは逃げた。


 罰せられたのは三老たちであって、いじめたやつらではなかった。彼らは手を差しのばして、たたきつけられ、それから一日中壁に向かって立っているようにいいわたされた。老三は、少しばかり泣き声を出した。しかし、ほかの生徒が愉快そうにくすくす笑いしているのをきくと、泣くのをこらえた。ただ、涙が音もなく頬をつたって落ちた。彼は、早くから学校だけでなく、家の中でも不正にたえる経験をしてきた。その夜、彼の父は3人の少年をさんざんにむち打った。とうとう一番上の伯父が、こいつらは悪くなかったんだといって、押しとどめた。