Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

『三字経』の暗誦 『偉大なる道』第1巻③ー5

 塾生たちが塾の刑罰のことでからかうと、三老はまたもや戦端をひらいて、それから教師のところに名乗り出てゆき、たたいてくれと手を差しのばした。今度は泣くものはなかった。彼らの敵はこれを見ると、おじ気がさして、あんな連中には相手にならない方がいいということになった。それから学年末まで、敵意に満ちた休戦がつづいた。三老は塾の出入りには、かたまって小さい突撃陣形をつくった。

 

 こういう旧式の学校では、生徒はまず『三字経』という儒教の教えや古い歴史からとってきた韻をふんだ対句集から習わされたが、教師は意味は教えてくれなかった。少年たちは、さまざまな音声をもつ文字が頭に刻みつけられるまで、完全な発音をする練習をもとめられた。意味は、年がたてばおのずと明らかになるだろう。朝早くから正午まで、すべての教室では、大声で教科書が朗読され、何度も何度もくりかえし、めいめいが異なったところを朗読し、自分の声をこの騒音の中で聞き分けようとする。正午には、昼食を食べに2マイル(3.2キロ)はなれた家に帰宅し、それからまた塾にもどって夕方まで勉強する。


 この初歩をおえると、塾生は『百家姓』『千字文』『幼学詩』『孝経』にうつってゆく。歳月とともに学びつづけたものは、四書五経のすべてを習得し、やがて科挙(官吏登用試験)に合格して、官吏となって家産を富ますことが期待される。官界への門は富への門だ。

 

 旧式の塾では、数学、地理、自然科学、近代史の学問は教えなかったと朱将軍はいった。古代聖賢は、知るに値することはすべて知りつくしていたとされ、後代のものは、ただその聖賢の書を暗誦するだけでいいというのが根本理念である。創意や独創性は野卑な事柄であり、危険ですらある。

 

 さて「三老」のうち、タイ・フォンだけは出来ない生徒だった。まったく頭が悪かったので、彼の家ではすぐに彼を退塾させ、畑で働かせることにした。老三は勤勉で従順な生徒で、眠ってしまうまで朗読し、兄に小突かれては目をさます。タイ・リーはすばしこかった。たいそう憶えがよくて、すぐに課業はやってしまって、余りの時間に短い歌などを習い覚えては、あとで笛で吹いたりした。しかしタイ・リーは歳をとりすぎていた。もし家計が苦しくなれば、彼もまた塾をやめて野良で働く身とならなければならないだろう。

 

 第一学年が終わったとき、朱家のものは、どうせ高い授業料をはらうんだから、いちばんえらい先生に教えてもらった方がいいだろうということになった。「閻王」(朱家の地主)は丁一族の子弟のための家塾をもっていた。教師も一族の人で科挙に合格した「秀才」、西方世界でいえばバッチェラー・オブ・アーツに当たるものだった。だから、1893年の夏のあいだ、丁の旦那様の家扶に向かって、ふたりの少年を丁家の塾に入れていただくお許しを嘆願しつづけた。