Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

丁家の家塾での悔しい思い出 『偉大なる道』第1巻③ー6

 ある日、一番上の伯父が丁家に行って、家扶の前でうやうやしく頭を下げたときに、もし教えてくださる大先生の給料のいくらかを払うというなら、朱家の二人のせがれは丁家の塾に入ってもよろしかろうときかされた。「丁家は大金持ちだった。だが、いつももっと金をほしがっていた」朱将軍はにがにがしげに軽蔑しながらいった。「われわれに、前の塾と同じ授業料を出させているくせに、タイ・リーと私は半日しか来てはいけないというのだ。だが、われわれはその取り決めを承諾した」

 

 塾は丁家の邸宅の中にあった。その建物は大きくて、中庭があり、応接間や宴会場も多く、その中心に壮美な祠堂があった。また、家の奴隷たちの住むところがあったし、小作人がはこびこむ穀物をはかり、粉にひき、たくわえる場所もあった。鬼瓦のある屋根の下にどれだけ多くの人が住んでいるか、小作人たちは知らなかったが、丁家は5世代が住むということを誇っていた。塀が、館と池と庭園を取りまき、その塀の外には、さらに多くの庭園と果樹園と、竹の子をとる竹やぶがつらなっていた。丁家のあるものはアヘンを吸い、すべてのものが妾をもち、いかなる仕事にもかかわるものはひとりもいなかった。のちに、朱徳成都の最初の近代的学校で学ぶようになったとき、「この家の息子たちはひとりもそこにこなかったが、つまり近代の学問を尊重するような家族ではなかった」ということを知った。

 

 タイ・リーと朱徳は、はじめて先生の丁氏の前に叩頭したときは、こわかった。部屋のうしろの、暗くていままで誰もすわらなかったところに机がおかれた。その壁にも、学問の徳をたたえたみごとな書がかかっていたが、36人もいる丁の息子たちは塾には出てくるが、学問に用はなかった。彼らは紳士だ。「一日中、あそび暮らしていたずらをする少年」である。先生は決して彼らを罰しなかった。しかし朱の息子のどちらかが、ほんのちょっとでも間違いを仕出かすならば、しかりつけた。みじめな存在だった。しかし、一生懸命に勉強したので、先生はまもなくふたりを親切にあつかうようになった。


 丁家の子たちは、ふたりの百姓息子をはずかしめるために、「朱」(チュ)という語をもてあそんで、「猪」(チョ=ぶた)のように発音した。彼らは、百姓のせがれなどにほんのすこしでも自尊心をもつことを許さなかったし、何ひとつ所有することもみとめなかった。朱将軍の幼いころの思い出のうち、もっとも腹立たしいもののひとつに、梨の話がある。家の近くの木からもいで、塾に持っていって食べようとした。休みの時間に、丁のひとりが彼のところにやってきて、梨をうばい取って、食ってしまった。

 

 「その子は、これはお前らのものでないといった。タイ・リーがそいつにゲンコツをくらわした。ほかのやつらがかけよってきたから、私はけったり引っかいたりしてやった。先生は私を少々罰したが、丁の子らには朱をからかうなといった。その事件のあと、丁のせがれたちは私の家にやってきて、うちの木の果物を取って食った。私たちはやつらを棒で追っぱらった。やつらほどしゃくにさわるものはなかった」