Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

飢饉の思い出 『偉大なる道』第1巻③ー7

もうひとつの思い出の情景も、朱徳が丁家の塾にかよっていたころのものである。その冬は雨がふらず、ほんの少しばかり雪がちらついたぐらいで、冬の作物は貧弱だった。春になっても雨はふらす、朱家のものは、川から畑に水をはこびながら、不安にかられて銅色の空をふりあおいだ。道も小道も粉のようなほこりだらけになった。つづく炎熱の夏には、丁家の穀物の蓄えは十分だったが、もはや飢えはじめる農民もでてきた。村々からは、雨神にいけにえを供える農民たちの太鼓がとどろいた。田舎道を開けっぴろげのかごに雨神をのせた長い行列がゆききした。人びとの難儀を見せて、神の心をうごかそうというのだ。しかも、「閻王」は小作人たちを召集して、例年どおり一家を涼しい山荘にはこばせた。

 

 かんばつの1年目のあいだ、朱家の全員は高粱(こうりゃん)や野菜の畑に水をはこび、祖母はみなの食事を一日少量の二食ということに決めた。タイ・リーと朱徳は正午に塾から帰ると、夜になるまでずっと水をかつぎつづけた。

 

 町の商人たちは米をたくわえた。人びとは農具や家畜や衣服や家具、最後には娘をだして、米と交換した。大きな町から見知らぬものがきて、農家の娘たちを買って、きれいな子は娼家に売ったり妾にだしたりし、器量のよくない子は奴隷にした。冬がきても、朱家はまだ二人の息子の授業料をはらうだけの資力はもっていた。

 

 勤勉で倹約な朱家ほどめぐまれなかった農民たちは、離村して南部の塩井(えんせい)の労働者になったり、重慶などの都会の苦力になったりした。大都会には、慈善事業の炊出しというものがあって、餓えたものは一日に一椀のかゆはもらえた。しかし村にはそんなものはなかった。

 

 朱家の男たちは、夜は交替で作物の番をして、秋には高粱や南瓜や蕪(かぶ)をとり入れ、子どもたちは山にはいって野草などをとってきた。丁家は山からもどってきたが、家扶(かふ)は外国風のライフル銃と弾薬を成都から買ってきて、不穏な世間にそなえた。

 

 老一と老三は、やせ、やつれ、年齢よりもずっと分別くさく老けてきた。家の最後の貯金も授業料として「閻王」にわたした。そろそろ、わずかな持ち物を売りはじめ、虎の子の寝床の畳まで手ばなした。しかし、農具や娘たちは売らなかった。

 

 2年目の夏には、人びとは雨神などはもう信じなくなってしまい、古くからある哥老会(かろうかい)という秘密結社のやせ衰えた仲間たちが、村々でひそひそと話しあいはじめた。百姓たちは夜中に起きでて、無慈悲な天と青白い月にぶつぶつ愚痴をいった。