Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

小作料の値上げと家族の分離 『偉大なる道』第1巻③ー9

 朱家は借金はしなかったが、もはや無一物になっていた。ある日、丁家の家扶がやってきて、お前たちはかんばつのあいだ小作料を払わなかったので、旦那様も「困っておられる」から、今後は小作料を上げるといいわたした。一番上の伯父がひざまづいて、私たちはいつもきれいに払い、よく働き、さからいもせず、また家族のだれも米騒動の仲間にはならなかったとくりかえし説得した。必死で嘆願したので、家扶も折れて、旦那様に話してみようといってくれた。そしてのちに、土地の半分の小作料は今までどおりにするが、残りの半分は高くするといいわたした。

 

 家族は長い相談のあとで、二組に分かれることにきめた。一方は、半分の、今までどおりの小作料の土地にのこり、他方はどこかよそで小作をするというのである。一番上の伯父といちばん若い四番目の叔父が出てゆき、祖父母と息子二人の家族が残ることになった。

 

 名義上の家長である一番上の伯父が本家を出るという取りきめになったのは、彼の養子のまだ小さい朱徳の教育をつづけるためだった。タイ・リーはもう12歳で大きいので塾をやめ、これから父や叔父や女子どもたちといっしょに野良ではたらくことになった。家族は別れるのだが、収入は今までどおりひとまとめにして、朱徳の教育はみなの負担になる。朱徳ははじめて生みの父母と別れることになった。彼の生涯のこのひとときを語るとき、朱徳の顔は暗くなり、家族の分裂を悲劇であるかのようにはなすのだった。実際、それは彼らみなにとって、ほとんど革命というべきものだった。この家族は緊密に組織された経済単位であったからである。

 

 野心にみちた一番上の伯父は、大湾の町のはずれに3エーカー(12,000㎡)の土地を借りた。その近くには先祖代々の家があり、家族の会議では、余裕ができたらその家をとりもどそうということになっていた。一番上の伯父は、いわば先祖の家に近づいていくことにしたのだが、その他にもここを選んだ理由として、シ・ピン・アンという老先生が近くに塾をひらいていて、朱徳の弟子入りを許してくれたということもあった。

 

 伯父は借金をして、次の収穫までの両家の生計費と、慣習として地主が小作人に要求する保証金と、朱徳の授業料にあてることにした。さらによく考えた末に、大望の人である彼は、弟の二人の息子もたとえしばらくでも学校にやろうと決意した。

 

 朱将軍は、その借金が1万文だったことをおぼえているが、それは成都の新造幣局でつくった新貨幣にすれば120元に相当した。そのころにすれば巨額のお金だったが、家のものは5年間も骨身おしまず働いてこつこつ貯めてゆけば、払うことはできると信じていた。

 

 こういうケタはずれの計画には、悲劇的背景、つまりアヘンの悲劇があったと朱将軍は説明する。そのころにはすでにこの地方にけし畑があらわれていたが、人びとはアヘンをけがらわしいものと見ていた。朱家のものも、けしを栽培すればうんともうかることはわかっていたが、節度をわきまえていて、けがれた道はとりかねていた。しかし、一族の分裂と大借金が、そんな道徳的な考慮を身のほど知らずのぜいたくにかえた。伯父と彼の弟は新しい土地の一部にけしを植えた。それでしばらくのあいだ生活は楽になった。