Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

大湾の先祖の家 『偉大なる道』第1巻③ー10

 朱将軍にとって、大湾はいつもよき思い出の土地だった。自然条件が他のどこよりもよかったというのではない。その小さな町が彼の家族が向上の一歩をとることを助けたという。

 

 大湾の内外には8千人ほどが住んでいた。彼はそれまでにこんな大きな町を見たことがなかった。「大きな町や市のあいだには交通の便がひらけていたから、家のものは、今までより多くの人に会い、新しい思想をきき、視野をひろめた」

 

 朱家の子どもたちにとっては、この小さな町は生気にあふれた大都会だった。本通りがあって、週に2回市(いち)が立ち、そこに鍛冶屋、棉すき、棉うち、大工、うすひき、皿つぎ、機織などの職人がむらがった。その本通りには、肉屋、造り酒屋、豆腐屋、精米所、菜種店などがあった。きれいな宿屋は金のある旅人用であったが、小さくて暗い、毒虫だらけの宿もあり、苦力のような連中は一晩1,2文で寝床と掛布団を借りることができた。夜番が、からの竹を打って夜の時を知らせ、また火事と泥棒の見張りをした。仏寺もあって、やさしい羅漢のむれと慈悲ぶかい仏陀が黄衣の僧たちに守られていた。大湾の郊外には、土地神にささげられた廟(びょう)があった。

 

 町にはひとつの宗教団体があって、信者たちは平和なときには金を集めて、年ごとの祭のために使ったり、はるか南方の聖山蛾眉への巡礼の費用にあてたりした。

 

 乞食、泥棒、ごろつきなどの多くは、最近の飢餓の産物だったが、市の立つ日などには正直な農民の声でわきかえる本通りをうろつきまわるのだった。市の日には、専門の手紙代筆業の人が道ばたの小机のうしろにすわり、また占師、手品師、旅芸人なども小金を目あてにせり合っていた。旅まわりの床屋は、小さな椅子、火鉢、手ぬぐい、かみそりをもっていて、わずかな金で、弁髪を洗ったり、油をぬったり、結んだり、歯を抜くことまでしてくれる。田舎の子どもの胸をわくわくさせる町だった。


 このころから後のことは、朱将軍は家族のことを語ることが少なくなり、学校や学校を通じて学んだ社会事象について多く語るようになった。一家は、衣食はよくなり、小作料も利息もはらっていった。3年たったときには、借金は全部返すこともできたが、彼らはそうしないで、貯金をまわして、抵当に入っていた先祖の家をとりもどし、丁の借地にいた方の一家が、4年目のはじめにそこに移ってきた。年老いた祖父母は、いまやりっぱな棺を買うこともでき、まだ元気ではあったが、やがておのれの土地の下に眠るであろう。


 この長年の渇望は、たやすく成しとげられたわけではない。3年にわたって両家が大変な苦労をしてたくわえたお金も、古い家を買いもどすのには足りなかった。2年目の終わりには、朱徳の二人の従弟に塾をやめさせた。貯金では足りないとわかったときには、必要な金額をつくるために、ほかで小さな借金をしなければならなかった。

 

 ほかにも金がでてゆく出来ごとがあった。朱徳の長姉のチュオ・シャンは15歳になると、ある自作農の家に嫁いでいったが、これまた大変な物入りだった。婚礼は、習慣どおり両方の一族の響宴となり、音楽をともなった。タイ・リーは得意の笛と胡琴で婚礼客をよろこばせ、朱徳の母の実家である役者一家は全員乗りこんできて、お礼は御馳走だけでいいといって歌い、かつ演じた。