Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

シ・ピン・アン先生の家塾に入学 『偉大なる道』第1巻③ー11

 朱将軍はこういうできごとは飛ばしがちになり、むしろシ・ピン・アン先生の塾によって彼の前にひらかれた新世界について多く語ろうとした。塾は彼の家から3マイル(4.8キロ)ほど離れた老先生の家でひらかれていた。彼はこの距離を毎日早朝と夕刻に歩いた。

 

 彼が二人の従弟とはじめてその塾に入ったときには、以前の2つの塾と同じ理由で、10人の生徒たちが彼らの日々をみじめなものにした。百姓は手で働けばいいと考えられていたので、百姓の息子が学者になろうと出しゃばることはおかしなことであった。そうした痛ましい屈辱感は今も朱将軍の胸をかきむしる。あれから40年たっているが、今もなお中国の貧しい子どもたちの大部分は教育を受けていない。しかし、シ先生の塾を回想するときには、彼の顔はやわらぎ、はじめに彼をいじめた少年たちのことすら温情をこめて語った。

 

 「ほかの子は、たいてい商家の息子だった」と彼はいった。「彼らは働かないといけないから、地主の息子より頭がよく、勤勉でもあった。彼らはすごく勉強したが、私も負けずにやったから、すぐに友人になった。いちばんの親友はウ・シァオ・ペイといって、私より4,5歳年上だった。破産した学者の子だった。まじめな性格で、徹夜で勉強することもあった。私はときどき彼の家に行った。家には蔵書があって、彼はその本を何度もくりかえし読んだ。夏休みには、本を読むために成都まで旅をすることもあった。こんなに勉学して物知りのシァオ・ペイを私は尊敬した。老先生には私とほぼ同年輩の息子がいたが、彼と私はとくに親しくなるということはなかった」

 

 シ・ビン・アン氏は朱徳が入学したときには60代の終わり、彼が塾をやめるころには80近くになっていた。科挙に合格はしていなかったが、同年代の人たちから尊敬され、外部の世界について非常に多くの知識をもっている学者とされていた。教えることが好きで、勇気があり、考え方が新しく、それに辛辣なユーモアの感覚をもっていて、古今の英雄にまつわる嘘八百の美談をはぎ取った。

 

 「80近くになっても、まだ反骨精神があって、『元気』いっぱいの論客だった」と朱将軍は愛情をこめていった。「彼は私に科挙のための準備をしてくれた」