Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

西洋列強と日本の台頭 『偉大なる道』第1巻③ー12

 この老人の指導のもとに、四書五経と綱艦すなわち中国史概要と二十四史を修了した。生徒たちが本の勉強でうんざりすると、老人は彼らをさそって、一家の食料の一部を自給している小さな畑を散歩した。歩きながら彼は皇帝や将軍や官僚たちのことを辛辣に語り、たいていの者は悪党であって、学者をやとって、やれ学識だ、徳だという作り話を書かせたのだといった。

 

 老人は、生徒にむかって大いに勉強して遠くに出て、西洋の学問をするようにはげました。というのは、彼は、科学が西方の国々を強くし豊かにしている、ということを聞いていた。彼は、科学がどういうものか知らなかったが、とにかく科学に熱をあげていた。中国は西洋の学問を採用するか、そうでなければ滅びるかという時機が到来していて、そのことに気づいた多くの改革者たちが国内のあちこちに学校をひらいているとも教えた。


 当時、中国の海港には2,3の新聞が出ていたが、朱徳も友人たちも見たことはなかった。朝廷は、社会的事件などは役人だけが知っておればいいと考えていた。この小さな塾ではニュースは旅人からきいたり、手紙から知るだけだった。

 

 この小さな塾は、1894年の日清戦争のことですら、中国がやぶれてかなり時間がたってからようやく聞いた。朱将軍は、ある夕方家に帰って、家族の者に日本が中国の海軍をうち沈めてしまい、陸軍を朝鮮や南満州から追い出し、中国に巨額の賠償金をはらわせようとしていると話したことを記憶している。大人たちは目をぱちくりさせてききいっていた。彼らは、日本とか朝鮮とか南満州とか中国海軍ということは全然知らなかった。彼らの敵は彼らの鼻先にいるやつら、つまり地主や役人や税取りだとしか考えられなかった。だが、とにかく息子のひとりが遠い土地のことや中国の大事をしゃべることができるのは、肩身の広い思いだった。この子はいつかえらい役人になるかも知れない。

 

 朱将軍はまた、あのシ老先生が立憲君主派の改革者康有為その他、帝国の各地の挙人1千人が署名した建白書の写しを朗読するのをきいたおぼえがある。それは皇帝にむかって下関条約を批准しないよう、そして国を近代化して外夷の桎梏から脱するように訴えたものだった。だが、皇帝はなにもしなかった。

 

 「わが国の知識人たちは」と朱将軍はいう。「下関条約の項目に戦慄した。突如として小国の日本が登場して、西洋の列強と競争しながら中国を制圧し搾取しようとするのだ。それはすぐ隣の国だ、しかも中国は、いかなる変革にも反対する蒙眛で退廃した王朝に支配されている広大な後進国でしかない」


 「そのときからずっと」と、朱将軍は憎しみをはげしくこめた声でいった。「北京政府は、借款につぐ借款を押しかぶせてくる外国金貨しどものための徴税代理業者でしかなくなった。それから3年とたたないうちに、北京はヨーロッパ、イギリス、アメリカの金貨しに強いられて、11の借款を承認してしまった。外国人たちは借款から利息を引き出すだけでは満足しなかった。貴重な鉄道線路や鉱山の権利を土地つきでもぎ取り、行政と警察の権限まで獲得した」