Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

門戸開放政策 『偉大なる道』第1巻③ー14

 朱将軍は当時のイギリス帝国主義には二派あったとつけ加えた。一つは中国を完全に分割してしまえと主張し、他は清朝を看板に出しておいて、その陰から全中国の貿易を支配しようというものであった。この「平和」的帝国主義の一派は頭をひねって、菓子を食べても減らないという妙案を思いついた。というのは、最強のイギリスが提案することはすべて疑惑の目で見られたので、彼らはアメリカに目をつけて、第一次世界大戦の終わりまでイギリスという凧の尾にしたのである。

 

 そこで、「平和」的帝国主義の一派は、アルフレッド・ヒピスリィという中国海関の役人をワシントンに送って、門戸開放政策をつくりあげさせることにした。その案はアメリカの経済権益にも好都合だったので、アメリカ政府はそれを自国の政策として採用し、他のあらゆる列強の支持も得て、1899年に「中華帝国保全」を確実にする政策として声明した。

 

 「勢力範囲はまだ残っていた」と朱将軍は注意した。「しかし、あらゆる列強の商人や投資家は、国のいかなる地域でも活動できるという原則をもつことになった。中国側に立ってみれば、状況はすこしも変わらなかった。門戸開放政策は中国の利益のために考案されたものではなく、まず第一にイギリスの利益、次におくれてやってきたアメリカのためのものだった。おこぼれが何か中国に落ちてくるとすれば、それはまったく偶然のものだった。中国資源の集団的強奪がはじまった。隷属化への国民の恐怖は増すばかりだった」


 清朝は完全に弱体で無知無能で、一方、人民には暴圧をもってのぞんだ。そのころ、帝国はわずか2,3の「近代的」軍隊を北方にもっているにすぎなかった。その他の中国軍といえば、ごく少数の新式ライフル銃のほかは古めかしくて時代遅れのラッパ型銃か、何人かが肩にかけて残りの一人が発射するという10フィート(約3m)もある口づめ砲というありさまだった。ある部隊はただ太刀と槍をもつだけ、なかには弓矢すらもつものがあった。こんな軍隊は外敵に対して非力なことはもちろんだが、武装していない人民に対しては強力だった。朱徳の省には2万の軍隊がおり、そのうち5千は満州人で、朱徳将軍の言葉によれば「のらくらで、ろくでなし野郎だが、軍隊のなかでそいつらだけが定まった給料をもらい、おまけに、毎年米をもらった。つまり、政府は全国の満州人に米を配給したのだ」