Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

共和制と洋学 『偉大なる道』第1巻③ー15

 外国に征服されるという恐れと清朝への憎しみは大きくなるばかりで、あらゆる種類の風説は村から村へ見るまにひろがっていった。朱徳は西洋人を見たことがなかったが、旅の人たちが断言するには、ほとんどのものが毛むくじゃらの赤ら顔で、脚にはひざ関節がなく、猫みたいな目が顔のふかく落ちくぼんだところにあり、その目で地面をにらむと、底にうもれた金や銀が見える。ヤソ教に改宗した中国人は、みな「洋夷のドレイ」とののしられたが、とりわけ、フランスのカトリックに入信したものが憎まれた。「どろぼう、人殺し、匪賊までが、中国の法律の手のとどかぬところに逃げるためにヤソ教に入った」と朱将軍はいったが、それは歴史によって証明されていることだ。

 

 朱徳の老先生は、西洋人に関する極悪非道な伝説を信じようとはしないで、この中国に来ている者はどうか知らないが、海の向こうの本国あたりには、善良な人もいくらかいるにちがいないと考えていた。このシ先生は、日清戦争後の中国を風靡した大改革運動の信奉者であるとみずから名乗っており、つねに塾生たちに勉強して外遊し、科学を習得するようにとはげました。改革運動とはいったいどういうものなのか、だれも正確には知らなかったが、とにかく、康有為の立憲君主制から、広東の医師孫逸仙の共和制までをふくむものだった。

 

 朱徳が、孫逸仙とはじっさいどういう人なのか、また世に恐れられているその思想は何を意味しているかということを知るまでには、まだ何年かかかるが、世紀の終わりのころには「共和制」という言葉を聞き知るくらいにはなっていた。しかも、彼にそれを教えたのは、有力な反対論者であった。つまり、「改革派総督」といわれ、産業資本家でもあった張であった。康有為と、学才と文才にめぐまれた梁啓超は彼の弟子だ。

 

 何とかして、シ先生は有名な「勧学篇」という論文を手に入れたが、それは張之洞総督が中国の青少年に洋学を研究することをすすめる一方、「共和制」と称する危険思想に警戒するようにと教えたものだった。総督はいう。

 

 「ああ、反逆の傾向を多分にもつこの言葉にふれることこそ恐れるべきだ。共和制という言葉! そこからは一片の善も生まれてはこないのだ。それどころか、このような制度には数多くの害悪がひそんでいる。もしこの共和制をみちびき入れるならば、ただ無知蒙昧の徒がこれをよろこぶだろう、なぜなら、内乱と無政府状態はわれらの上を暗夜のごとくおおうだろうから」


 共和制! シ先生はその言葉について長く考えたが、何のことかさっぱり見当がつかなかった。共和主義者とは土匪どもの秘密結社であって、掠奪殺人をおこなうか、もくろむものだということだ。だが、老人はなかなか恐れなかった。というのは、新しい変革を唱えるものは、すべてこれに似た非難をあびるものなのだ。太平も土匪、人殺しと呼ばれなかったか。また、この名高い総督も、西洋人に中国を蹂躙する力を与えた科学という新学問の唱導者ではないか。