Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

戊戌の変法 『偉大なる道』第1巻④ー1

 外国による征服への恐怖の波にあおられながら、改革は国中にひろまってゆき、1898年に若い光緒帝が成年になって玉座につき、反動的な伯母西太后の摂政を廃して、自力で国政をとるようになったときに最高潮に達した。のちには改革運動を裏切ることになる、名高い「改革総督」は、康有為と彼の弟子の改革派の人びとを皇帝の相談役として推薦した。若い皇帝は彼らに改革のことを一任し、こうして1898年の「戊戌(ぼじゅつ)の変法」は国中を風靡(ふうび)していった。

 

 あの大湾のほとりの小さな塾にまきおこった燃えるような情熱を、朱将軍は今もありありと思い浮かべることができる。腐敗した古い中国はすべてを焼きつくす「百日変法」の炎にまかれ、農村の土地のほかは、軍隊も学校も財政も科挙制度も、古いものはみなほろびつつあった。国は産業化されることになり、週に一日の休暇の制が布告され、満州朝への臣従の表象である弁髪すらも廃止されるということだった。

 

 まだ大きな力をもつ臣下をしたがえた西太后がひきいる反動勢力を排しながら、洋学の学校は雨後のたけのこようにひらかれていった。シ老先生は夢中になって新しい教科書を探しまわったが、残念ながら、こういう地方で手に入るようになるにはまだ数年を必要とした。朱徳の学友が成都から持ちかえったただ1冊の数学書を、年とともに学生数が倍加した塾の全員で使用しなければならなかった。シァオ・ペイと朱徳は塾に数学をみちびきいれた先駆者ということになって、週に何時間か他の少年に教えてやるようになった。

 

 女の地位が変わってきて、女子も教育を受け、てん足は禁止されるといううわさまであった。朱家の家族は、自然のままの足のほうが仕事をさせるにはいいにきまっていると考えたが、大きな足をした娘を嫁にほしがる男なんているだろうか。てん足をやめるというのは話しだけで、すこしも実行されなかった。

 

 朱将軍は、夕暮れに塾から帰ってできるだけの畑仕事もしたあとで、すばらしい改革運動について熱心に家族に説明した思い出をかたった。大人たちはじっとだまって聴きいり、こんなえらいことがしゃべれる息子を自慢に思い、「これなら、何か高級の役人になれるにきまっている」と思ったが、改革ということにはまったく熱がはいらなかった。

 

 それは、ただ彼らが古臭くて保守的だったからではない、と朱将軍は言いわけのようなことをいった。改革が土地制度に触れてこなかったからだ。1898年の改革主義者たちは日本のまね、つまり農民はいままでどおり地主に隷属させたまま、資本主義にもとづいて近代化しようというのだ。土地改革などを口にはしたが、実際は、エジプトやアメリカから長繊維の棉の種を買ってきて、小作人に売りつけようということだった。