Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

西太后復活 『偉大なる道』第1巻④ー2

 「改革は商人、地主、産業家、知識人の利益にはなったが、国の基本になる農民のためにはならなかった。改革での農民の役割は税を払うことであって、新制度の財源にするために多くの新税がかけられてきた。

 

「保守的な改革派は、西洋の民主主義の国々は近代化し産業化する中国を歓迎するだろうという幻想にとらえられながら努力していた。だが、外国人はそんな中国こそ、自分たちの競争相手になるものとしておそれていたわけだ」

 

 また、改革派の首領たちは、土地改革をおこなうことによって、農民の支持を受け反動派をやっつけるということをしないで、ただ敵対者の巨頭と当然考えられる西太后を追っぱらうことを試みた。しかし、それは成功せず、袁世凱将軍に裏切られてしまった。袁は、改革派と自称して、新帝に対しては「恭しく犬馬の労を執ります」などと固い忠誠を誓いながら、裏切ったのである。

 

 それに力を得た西太后は、敵を一掃して、若い皇帝を幽閉し、手のとどくかぎりの改革主義者の首をはねた。康有為は香港にのがれた。それから10年ほど大きな役割を演じる人となる梁啓超は、日本にのがれ、そこで新党を組織して『新民叢報』という半月刊誌を出して、保守的な改革運動を生かしつづけようとした。有名な「改革総督」、つまり最初に改革派の指導者たちを玉座に紹介した張之洞は、どうしたかといえば、とんぼ返りをして、改革派と手を切ったと宣言し、西太后の愛顧を得るために彼女をたたえた詩を作ることすらした。だが、彼をつけねらった若い改革主義者の何人かの首をはねるまでは、西太后の寵愛をとり戻すことはできなかった。

 

 中国にはふたたび暗黒がおおった。朱徳の住む地方でも、改革運動のことをおおっぴらに口にするものはまったくいなくなった。小さな塾は重苦しい気分につつまれ、シ先生は、ふたたび辛辣な諷刺にもどった。数学の教科書は、こっそりと研究することになった。