Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

東四川の義和団の一派 『偉大なる道』第1巻④ー4

 朱将軍は、正確な年月はいえなかったが、ある日餓えた人びとの大群が、棒切れや古い鳥銃で武装して、老先生の家をとりかこんで食べ物を強要したことを記憶していた。ふたたび米騒動の人びとが、路頭をさまよって「金持ちを食い倒し」はじめた。シ先生は富豪ではなかったが、出せるだけのものはすべて人びとにあたえ、彼らががやがやと声を立て埃の雲をあげて大道を歩き去ってゆくのを、塾生たちといっしょにながめながら、深い溜息をついた。

 

 同じ日に、弁髪で黒服と椀帽と新式銃を身につけた騎兵の一隊が、「米騒動」のあとを追って疾駆してくるのを朱徳は見た。そして、彼らが飢えた民衆に追いついたときに「血が河となって流れた」ということをきいた。こんな社会情勢だったので、何らかの大衆蜂起は避けられなくなっていた。

 

 東北の義和団の矛先(ほこさき)は外国人の方にそれていったが、華中と華南では、朝廷の工作ははるかに無力だったので、社会革命の性質をおびたというのが朱将軍の意見である。「われわれは義和団に同情を寄せた。しかし、四川のものは、その反乱にはほとんど参加しなかった。ただ、成都で宣教師や信者に石を投げたことがあった。役人の中にさえ、排外する者が少なくなかった」

 

 「東四川には義和団の一派が起こり、農民はユー・トゥン・チェンという人物の旗下に参集した。彼は、外国人をおどかすために『猛ユー』と名のっていた。ユーと部下は、キリスト教宣教師と信者をかなり苦しめた。しかし、彼らの憤慨は主として地主と徴税史に向けられた。彼らは、食糧や布団やほしいものを奪っていった。最終的に総督が成都重慶から兵をおくるまで、役人どもは風をくらってあわてて逃げた」