Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

義和団の乱の賠償金 『偉大なる道』第1巻④ー7

 朱徳は学友といっしょに、市の立つ日の大湾やそのほかの町や村の農民のあいだに入っていって、四川にも危機がせまっていること、目玉が飛び出るような賠償金を新税の形で人民が払わなければならないことなどについて話をした。アメリカは義和団賠償金のほんの一部を返却して、北京郊外に清華学校を建てたが、それは博愛の精神からではなかった、と朱将軍はつけ加えた。

 

清華開設の目的は、学生がアメリカに留学して高い教育を受けるための準備にあった。やがて、彼らはアメリカの利益のために働くことを期待された。1917年の革命後、ロシア政府は義和団賠償金を無条件で返却し、同時に、いままで旧帝制政権と北京政権とのあいだに結ばれた条約や協定を、他の列強とのあいだの中国に関するさまざまな取り決めといっしょに廃棄した。ドイツとオーストリアは、第一次世界大戦によってその賠償金を投げ出さなければならなかった。しかし、他の国々がそれを返却するまではその後30年もかかり、しかも、彼らに都合のいい条件をつけてのことだった。

 

 朱将軍が私にむかって、清華学校その他の設立のかげに隠れる強欲な動機について、このように辛辣にかたってから3年後に、私が重慶で会ったフランスの外交官が、中国のフランス系学校で教育された中国人が恩を知らない、となげくのを聞いたことがある。「彼らはフランスの利益のために働こうとはせず、まるで中国の学校の卒業生と同じように行動する」彼は、私があきれてしまうぐらい無邪気にいった。さらに「アメリカはいくぶん成功したらしいが、それでも、多くの『アメリカ製品』は飼い主の手をかんだ」と彼は愚痴った。とにかく、フランス人としては、中国での教育施設を改革するか、それとも失敗したものとして閉鎖してしまうかしなければならないだろう。中国におけるフランス系学校の問題について、この人の観点はただフランスの利益のためということに尽きる。

 

 朱将軍の義和団の語りをきいていると、その乱に対する外国人の意見がどうであるかについてはほとんど知らないようだった。彼は徹頭徹尾中国人であり、完全に民衆のひとりだったので、終始その視点でのみ考えた。多くの弱点があり、また「反動の目的のために利用」はされたが、「やはり、この乱は中国人の絶大な力と勇気と大胆さを発揮したものだ」といった。そして、華北でとらえられた義和団のらばまでが、外国の侵略軍のいうことをきかなかったという話をした。尻を地べたにすえて、外国人がたたこうが蹴ろうが、動こうとはしなかったというのだ。