Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

共和主義者の台頭 『偉大なる道』第1巻④ー8

 あきらかに朱将軍は、清朝よりは義和団のらばの方を尊敬していた。清朝は、勝った外国軍のゆるしをえて、逃亡先の西安から北京にもどってきた。老西太后は、勝者に媚びへつらって、外国公使の夫人たちを宮殿の茶会に招いては、すばらしい宝石類のおくりものをした。太后の宝石だけで賠償金のすべてをはらうのに十分だったろうが、政府は、新税を案出して人民にかけ、ますます貧困と絶望に追いこんだ、と朱将軍はいった。

 

 反乱のあと、中国人はみな恐ろしい外国人におののいた、と朱将軍はつづけた。「だが、外国の陸軍や海軍が入りこめない内地にいた外国人も、中国人にびくびくした」四川の宣教師たちも、いまでは「異教徒ども」を軽蔑する声をすこし小さくした。中国の青年への影響力がうしなわれることを恐れて、自分たちの学校にいろいろな科学教育をもちこみすらした。

 

 私が朱将軍に、西洋の科学を学ぶために宗教学校にゆくということは考えなかったのですか、ときくと、びっくりして私を見つめた。


 「そんなこと、ありえない!」彼はさけんだ。「私は愛国者だ。宣教師らは中国人を政治的に文化的に去勢して、自国の歴史と文化を軽蔑する人間にしてしまったのだ。キリスト教信者の中国人は、自国語を話すことはできるが、手紙はほとんど書けないというありさまだった。彼らは、アメリカやイギリスやフランスは天国で、高等な中国人の霊魂はみな死ねばあっちへ飛んでゆくものと考えていた」

 

 彼はさらにつづける。――義和団のあと、清朝への憎しみは深まり強まってゆき、孫逸仙がひきいる共和主義者はいよいよ強く勇敢になった。香港で新たに発刊された『民報』は、朝廷を打倒すべしと声明した。その機関誌は内地に密輸入された。しかし、朱将軍が刊行物を見たのは、5,6年ほどのちのことだった。保守的改革派も大胆になって、成都で小さな新聞を秘密裏に出したりした。朱徳の塾にもその新聞が一部まいこんできた。――それが、彼らが見たはじめての新聞だ。それには、報道記事のほかはのっていなかった。「だがそのころは、報道記事そのものが革命的だった」人びとはそれを写して友人に送った。