Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

義和団の乱の影響 『偉大なる道』第1巻④ー9

 反乱後、朝廷も、控えめだが新しい改革案をいくつか公示した。だが、公示だけで実行はなかった。それでも、知識人たちは、ふたたび希望を見いだして、洋学を教える学校をひらきはじめた。しかし、新式の教科書はなかったので、教師は、記憶かノートをもとにして教えるほかなかった。朱徳の塾の生徒たちは、来る旅人全員を待ちかまえ、どんな本でももし持っていたら手に入れようとした。また、成都からきた読書人が通りすぎるたびに、シ老先生は、授業を中止して、その人を招き、成都や北京その他の土地での出来事をすべて聞き出そうとした。生徒たちは、何時間も飽きずにすわり、目は話し手の顔にそそいだり、その手の一挙一動を追ったりして、言葉と意味のほんの少しの陰影も見のがさないようにした。朱徳は、大きな褐色の目と剃った頭と長く背に垂れた弁髪の、十代なかばの若者だった。もはや、中国の問題の全貌を、たとえ解決の道はわからなくても、完全につかむことができる年ごろにはなっていた。

 

 義和団の乱の悲劇は朱徳の脳裏に深くきざまれていたので、まるで時のへだたりを忘れたかのように話し、自分にむけて話しかけているかのようでもあった。

 

 「のちに、私がドイツに留学したときに」といったときの声は、氷のように冷たくかたかった。「ときどき招かれたあちこちの家で、中国のじゅうたん、花瓶、絵画、彫刻された家具やそのほかの美術品を見た。それについて私がたずねると、彼らはまごついた。それで、北京の家や宮殿から奪ってきたものだとわかった。ベルリンの軍事博物館には、義和団の旗がさがっていた。そんな風に探してゆけば、同じようなものは、フランス人、イギリス人、アメリカ人、日本人の家でも見つかったはずだ」