Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

教育改革と新学校(1905年) 『偉大なる道』第2巻①ー4

 1905年に教育改革のことが公布された直後に、朱徳は、帰宅して、さほど遠くない順慶に開設された新学校に入って学ぶことを許してほしいとせがんだ。家族のものは、金がないといった。彼は、その学校は官立だから一切が無料で、少しばかりの小遣銭があればいいだけで、しかも、その小遣銭は老先生に送っている米の代価の何分の一ぐらいだといった。家族は、それでも許さなかった。役人になれるように、彼ひとりを学問させるために大変な犠牲をはらったが、このうえ、あわてて流行かぶれの学校に飛びだしていってほしくない、という。彼らは、改革がいつまでもつづくとは信じられなかった。

 

 家族を説きふせることができなかったので、朱徳は、老先生の家にもどって、口を利いてくださいと嘆願した。老人は「新学」を信じていた。そして、彼の言葉は、塾生の親にとっては絶対従わなければならない法だった。彼は朱家の長をまねいて、長い時間話し合いをした。その結果、朱徳の親たちは彼が新学校に入ることをみとめたが、次の年に受ける予定になっていた科挙への準備学習はつづけるという条件がついた。新式の学校も、近代的な学科を教えるだけでなく、科挙への準備教育もしてくれていた。

 

 1905年の秋の学期がはじまる数日前に、19歳の朱徳は、まず老師の前に、つづいて義父母の前にひざまづいて礼をのべ、それから、徒歩で新しい学校に向かった。それは、丁家の土地にいたころはじめて塾に入った日と同じくらい生涯の一大事であった。彼は、今までの学問をつづけながら、自然科学、外国語、世界史、地理を学ぶだろう。彼の前に新世界がひらけ、彼は、新しい革新された中国の一員となるだろう。