Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

順慶の新学校に入学 『偉大なる道』第2巻①ー5

 新学校に到着と同時に、自分で考え出した「書名」、朱・チェン・徳という名で手続きをした。当時の中国人はたびたび名を変えることがあり、これは彼の2回目の「書名」だった。さてそのとき、指導教官のおそろしい宣告があった。科挙の準備をするものは、新学科を1つでも学ぶ時間はないだろうといわれた。教官は、最近本校に配属されてきた日本人教師に日本語を習ってはどうか、とすすめた。物理と化学の講義はあるが、教科書も実験室もなく、教師たちは、記憶によるか、自分がおそわった時のノートをたよりに教えなければならなかった。四川では、新しい学問は生まれたばかりだった。

 

 「なさけなくなって、私は泣いた」と朱将軍はいった。「だが、教師の言葉は絶対だから、私はしたがった。そして、科挙のための勉強はつづけた。日本語も習ったが、ほとんど何もおぼえていない。語学は苦手だったし、教師が何となくきらいだった。日本は最近わが領土を占領したではないか。あの男は日本人ではないか。私は、彼が教えることは何から何まで、犬とか猫とかいう言葉まで、信用しないことにした。

 

 「私は、希望する科目は学べなかったが、8百人の学生の中に交じったり、教師におそわったりして、かなりの学問を積むことができた。ほかの学生たちといっしょに、夜分に教師の家によくおしかけたものだ。たいていの教師は改革派で、そのうちのひとり張瀾という人は、あとで知ったことだが、同盟会の秘密会員だった。今日、張瀾老博士は中国における民主的な指導者のひとりだ。そうした教師たちはみな、授業や普段の会話のなかで、遠まわしに、反清朝の政治的宣伝をまじえた。はっきりと清朝の名は出さないで、ただ『古い制度』というようにいった。私たちにもその意味はわかったが、口には出さなかった。おおっぴらに清朝を攻撃することは、あえてしなかった」