Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

科挙受験 『偉大なる道』第2巻①ー6

 1学年が終わると、朱徳は、老先生のもとにもどり、そこで先生の息子といっしょに科挙に備えて古典の猛勉強をして夏をすごした。1906年の8月の末に、彼と老先生の息子は、県の試験を受ける年長者たちといっしょに大湾を出発して、儀隴県に向かった。儀隴県はほんの25マイル(40キロ)ほどのところだったが、朱家のだれひとりとして、かつて家をはなれてそこまで行ったものはいなかった。そこは小都市にすぎなかったが、一家は危険がいっぱいの大都市と考えていた。だから、彼の養父は、老先生に頼んで、ふたりの若者が年長の人たちといっしょに旅ができるようにとりはからってもらい、その年長の人たちに、大都市の底辺のペテン師らから守ってもらい、盗賊にもかからないようにも気を配ってもらおうと考えた。「家のものが、私が金を使いはたすのではないかと心配する必要なんかなかった」と朱将軍は笑った。「そりゃ、借金して、私の受験費用と儀隴県に1ヵ月いるだけの費用は持たせてくれた。だけど、私は、前の年にほんのちょっぴり小遣銭を手にしたぐらいで、生まれてこのかた金をいじったことはなかった。私は金の使いようを知らなかった。何か買うまえには、一銭一厘をけちけち惜しんで必死だった。私は、百姓らしく金をあつかった」

 

 儀隴県についてみると、ほとんど千人に近い、年齢もさまざまな受験生が、古い孔子廟で登録して受験料をはらっていた。農民は彼ひとりだった。たいていは地主の家のもので、儀礼どおりに絹の長衣を着て帽子をかぶった紳士であり、ここにくるためにも下僕をしたがえて、かごに乗って旅をした。朱徳は、大昔からの風習にもしたがって、新しく朱・ツン・メンという名に変えたが、これは、もし彼が役人になれば、生涯の役人名になるだろう。この名はやはり風習にしたがって、彼の科挙の準備教育をさずけた老先生がえらんだものだった。


 彼と友は、小さな部屋を借り、市場で炭と食料を買い、受験期間の自炊生活の準備をはじめた。どちらも、いままで料理店に入ったことはなく、料理の値段を見ては、腰をぬかすばかりだった。ふたりは、毎日市場にゆき、ケチをつけたり値切ったりしたあげくに、しぶしぶ必要なものを買った。

 

 改革の公布は出ていても、試験方法に変わりはなかった。試験官は、いままでどおりで、旧制のことしか知らず、大昔以来のしきたりで、経典から題目をえらんだ。朱将軍は、それらの問題は思い出すのもばかばかしいという。ただひとつの題が、中国の歴史の幅広い知識を必要としたので、いくらか値打があったといえるだろう。作文の一つは、キリスト誕生以前の人である孫子の兵書からの主題だった。

 

 試験は1ヵ月つづいた。5日が終わるごとに2日の休日があり、そのあいだ、受験生たちは、合格して次の段階の問題群と取り組む資格ができるかどうかを知るまで待つ。何百人かがそこで不合格になる。だが、朱徳と友は、各段階を通過して、最終段階に立ち向かう。