Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

科挙合格 『偉大なる道』第2巻①ー9

 そのとき、彼はひとりの若い男を見つけた。おさないころに丁家の土地でいっしょに遊んだ農家の子どもだった。この人びとの悲運はひとごとではないと、ひしと身に迫ってくる思いがした。この若者は年期契約をしてここで働き、肺病でじりじりと死にかけていたのだ。朱徳が話しかけようとしたとき、若者はおのれの悲惨を恥じるかのように声もなく逃げて行った。朱徳の目の前に、自分の家族のみなの面影がうかんだ。兄弟、甥、従兄弟たちの将来にはどんなことが待ち受けているだろうかと、それがわからないままに、彼は恐怖を感じた。おれは一家のために重大な責任をになっているのだとはっきりと自覚した。おそろしさに心も乱れながら、養父にあんなうその手紙を書いてよかったのだろうかと思いわずらった。儀隴県に帰る道すがら、自問自答した結果、成都で1年間学習した後には、教師になって、家に送金することができるようになるのだと自分にいいきかせた。

 

 儀隴県に帰ってみると、掲示板にはられた受験合格者の名前のなかに、自分の名を見つけた。
合格して、西洋ではバチェラー・オブ・アーツにあたる「秀才」になった。

 

 次の日、大湾からきたひとりの商人が、家からの手紙と成都での1年の小遣銭になる借金をわたしてくれた。彼は、これにこたえて、手紙の中に科挙合格を通知する紅い紙の書面である「捷報(しょうほう)」を同封して送った。彼はわかっていた。その通告書は大湾の町にはり出され、彼の一家は「面子」を得、そして町の人びとはお祝いにやってきて、彼の受験の費用の一助にと少額の金を贈り物にするだろう。朱徳の気持ちは、いまようやくなごんできた。

 あくる日の明け方、成都への道にいでたった。一張羅の衣服と上等の布靴は、肩にかけた包の中に入れた。旅人は、通常は11日で成都に着くが、彼はこれを半分の日程で行くことに決めた。農民であり、いままでほとんどいつも、遠距離の塾を往復し、田畑でも割りあてられた仕事もしてきた。長い道程を早く歩いてゆくことはできるはずだ。

 

 「私は若かった。ひとりで歩いた」と朱将軍はいった。