Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

成都の高等師範学校体育科入学 『偉大なる道』第2巻②ー2

 あくる日、つまり儀隴県をたって6日目に、彼は、約千名の学生がいる高等師範学校の体育科の入学手続きをした。最初に気づいたことは、偽の弁髪を椀型帽子にさしこんでいる教師がいることだった。彼らは、日本留学中に弁髪を切ってしまっていたので、帰国してからは、かつらを買ったのである。

 

 「私は、その人たちをすごく尊敬した」と朱将軍はいった。彼らは革命家だった。「そして私は、革命的なものすべてをたたえた」

 

 その次にすごくびっくりしたことは、自然な足の女学生がいたことだ。そういう女学生たちは、成都の私立学校に入っていて、かごで旅行したり、小さな群れをつくって街を歩いたりしていた。彼は、彼女たちに話しかけたかったが、勇気がなかった。男女間の交際は、そのころではありえないことだった。唯一の正当な関係は結婚であり、結婚は双方の家が定めるものだった。結婚には金がかかり、彼には金がない。だが、結婚する気もない――少なくとも、この成都の娘たちのように教育があり、自然な足をした人と結婚できるようになるまでは。「私はとても惚れっぽくて、娘たちにあこがれていた。――ただし、行儀よく、遠いところから」と朱将軍はまるで禁断の地に踏みこむかのようにためらいがちにいった。それとも、外国の女にこういうことをいうのが恥ずかしかったかもしれない。ところで、私が観察していたかぎりでは、この朱将軍は豪快で、露骨な冗談をいうのがうまく、たびたび、一座の人びとを腹をかかえて大笑いさせた。成都の街頭で遠方からつつましく少女を見つめていた、はにかみ屋の青年の日々から30数年が流れていた。

 

 このような話題はすぐに引っこめて、彼は省都での生活について語りだした。1906年ころには、成都には2つの大きな官立学校があった。ひとつは高等師範学校であり、もうひとつは新しい軍官学校で、そこでは、新式軍隊の士官を養成し、下士官養成部も付属していた。彼はその軍官学校に移りたいと思ったが、古来から兵士を軽蔑しつづけてきた家族のものと、喧嘩わかれすることをおそれた。しかし「新軍精神」は巻きおこっていて、満州人総督錫良は新軍団を組織しつつあり、後に総督となる趙爾巽(ちょうじそん)が指揮官になることになった。軍服姿りりしい士官がほこらかに路上を闊歩し、制服の高等学生も負けてはおらず、どちらも新中国で果たすべき任務を意識していたのである。