Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

家族の貧窮 『偉大なる道』第2巻②ー7

 朱徳が留守にした2年間に、家はますます貧しくなっていた。外面からはそれほどはっきりわからなかったが、よく見れば隠しようもなかった。衣服は、彼の帰郷を迎えるために、洗ってかがってあったが、ぼろぼろで色もあせていて、もう何年も着ふるされたものだった。一家は大きな借金をしていて、片時も忘れることがない憂慮が、みんなの上にのしかかっていた。それを、彼がぎりぎりのところで救ってくれると期待していた。一族の両家が苦労に苦労を重ねながら、この瞬間を待ちこがれていた。

 

 「みなが、私に嫁をもたせたほうがいいと思っていることがわかった」と朱将軍はいった。

 

 「そして私も、私ならば、家の借金を払うだけの持参金を要求できることはわかっていた。だがみなは、私をすごく偉くて学問のある人と思いこんでおそれていたので、結婚のことをほのめかす勇気もなかった。私が口にする一語一語を、まるで私の唇から宝石でもしたたりおちているかのようにありがたがった。ただ、私が新改革について熱心に語ったときに、養父が、改革は『貴人』にはよかろうが、百姓には何の足しにもならん、といった。農民は改革のために高い地代、数えきれない税、そのほか政府が考えるありとあらゆる手段で、金を吐き出さされていた。

 

 市場の布類のほとんどは外国製品で、国産の布より安かった。しかし、それすらも農民は、半分はだかになるまでは買えなかった。徴税吏は2,3ヵ月ごとにやって来ては、またしてもその年の税金を要求した、――新学校、新軍、地方軍、決して造られることにない新道、灌漑水路、地方官吏の俸給のため。地主は地代を上げることで、あらゆる課税を小作人に肩代わりさせた。税を払うためには、農民は、高利をむさぼる金貨しのところにゆかねばならなかった。この、身を切りさいなむ不安と貧困に対して、私の熱心な改革運動論などは、はかなく、むなしいものとひびくだけだった」