Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

新教育を受ける権利闘争 『偉大なる道』第2巻②ー12

 「もうそのころには、私たちの評判はすごくよくなり、支持者が格段に増え、学校には70人ばかりの生徒がいた。旧弊派は、法廷で敗れ、世論も彼らを悪くみていることがわかると、あらゆる卑劣な手段をとりだした。ごろつきをやとって、糞尿の桶を学校の前でぶちまけさせたが、それでわれわれを抑えることができないとわかると、暴力団をやとって街頭で襲撃させた。

 

 「私は学生を、自衛のための柔術や拳や棒でたたかうように訓練しはじめた。われわれは棒を持って街頭で暴力団と激闘した。何人かの悪党どもを生けどりにして法廷に突き出しもした。するとやつらは、わが身可愛さに、雇い主の名を吐き出してしまった」

 

 朱将軍がいうには、同じような闘争が中国全土で行われていた。大きな港湾都市をのぞいては、学生は新教育を受ける権利のために戦わなければならず、時間の半分は自衛のために使われた。

 

 儀隴県の新学校は、同時に新政治思想の中心でもあり、この小さな市から近隣の町や村へと浸透していった。まもなく人びとは、中国の歴史において清朝ほど腐敗し専制的なものはないし、改革の宣言は、朝廷が新生中国を望んだからではなく、中国人民にあらがって自己を保全しようという目的からだと断言するようになった。老西太后は1908年11月に亡くなったが、その前日に、彼女が1898年以来幽閉していた若い皇帝が毒殺された。死の床で皇帝は、弟の摂政醇親王に復讐をいい残した。彼は、袁世凱――西太后のとりまきで、1898年の改革の裏切者――をおのれの殺害者だとして責めた。

 

 したがって、摂政の最初の行動は、袁世凱将軍のあらゆる官職をうばい、北京から追放することだった。これは袁将軍がイギリス人とアメリカ人のお気に入りであることを思えば、大変な勇気がいることだった。後に1911年に選挙された大総統孫逸仙を押しのけて、この男を中華民国の大総統にする策略をしたのは、その英米であった。