Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

ジャンクで四川省脱出 『偉大なる道』第2巻③ー1

 1908年の12月半ばに成都に踏みいった若者は、2年前のぶざまではにかみ屋の百姓のせがれではなかった。もはや22歳であり、経験もつみ、自信もあった。といっても、世なれた男というところまではいっていない。心につらい痛手も受けた。そのころから数年間の彼の態度と行動は、やはり農村青年の無邪気さと素朴さを物語るものだった。

 

 いや、そういう点から見れば、彼は、生涯のいかなる時期にも、彼の世代の多くのものの特徴である、物事の裏側を複雑に見ぬく習慣を身につけることは決してなかった。50歳を越えても、彼は、何よりもまず本能的に、人間本来の善、とくに青年の善に信頼をおいた。第二次世界大戦の最中の1944年に、ニューヨーク育ちの複雑な感情をもつ若い特派員が延安をおとずれた。彼は、朱将軍と同志らはものの裏を見ぬく力を全然もっていないが、そのような力なくしては、中共がやっているような政治運動は成功するわけはない……と書いた。

 

 成都に着いた朱徳が、チン・クンに会ってみると、すでに彼は、ひそかにジャンクをやとっていたので、それで岷江をくだって揚子江に達し、そこから大山脈を歩いて越えて、「雲の南にある国」にゆくという計画をたてていた。もうひとり、雲南府のフランス人の家の料理人として就職したいという男も、舟代を分担することになった。

 

 あくる朝、まだ暗いうちに、ふたりの青年がチン・クンの家を抜け出して河岸に行ってみると、すでに料理人と船頭が待ちうけていた。ジャンクは底の浅い舟で、船首船尾は雨ざらしだが、中央部にむしろ敷きの部屋があって、雨露をふせぎ、夜はそこで寝て、宿泊代を節約することもできる。南に、そして南東に、大揚子江に向かって奔流する危険にみちた急湍で舟をあやつるには、7人の船頭を必要とした。

 

 岷江が、雄大峨眉山系をつらぬいて走りくだるとき、船頭たちは、舟のために必死にたたかった。両岸は、垂直にそそり立つ断崖であり、松やひのきや色うつくしい竹や密生した潅木や蔓(つる)の原生林であり、そのかなたには、昔から数々の伝説が作られてきた聖山の、奇異な形をした峰々がそびえていた。