Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

雲南のアヘン中毒者 『偉大なる道』第2巻③ー2

 故郷をできるだけしっかり見ておきたいという思いから、この旅人たちは、主だった街々では何時間か舟をとめたが、やがて揚子江岸の宜賓に上陸した。あくる朝、寝具と衣類を巻いて肩にかけて、大江をわたって、山に登りはじめた。狭い小道は山腹に絹の糸のようにかかり、片側には真直ぐにそそり立つかたい岸壁があり、片側には口をひらいた暗黒の深淵があった。



 道には宿場があって、旅人は日が暮れる前に宿を求めることができた。見あげても見まわしても、人跡未踏の、雪におおわれた山々がつらなり、あちこちに真黒なとんがった峰が突き出していて、まるで荒れ狂う大洋が一瞬に石に変わってしまったような感じだ。いくつかの峰は、海抜1万1千フィート(3,400m)、あるいはそれ以上あり、流れがその麓の暗黒の渓谷に激しく走り、または地底からわき出て、獣のようにほえながらどこかへ隠れてゆく。

 

 朱徳は「身をかむ雲南の苦渋」ということは聞いていたが、やっとその意味が十分理解できた。道に沿って村々はあったが、家というのは、低いきたない小屋にすぎず、そこに、首に大きなこぶが垂れるアヘン中毒者が、たくさんの山羊や羊や犬やあらゆる種類の毒虫と同居している。小屋のまわりには、ほんのわずかな畑があるが、多くはアヘンのためのけしを栽培する。アヘン禁止の勅令は3年前に出てはいたが、雲南の歳入の主要部分はいまもアヘンからであり、人口の4分の3はそれを吸っていた。

 

 1909年の2月末、成都を出て11週間後に、3人の旅人は、ある峠に立って、煙突のように細長い平野のかなたに、当時雲南府とよばれた旧都昆明が、海抜6千フィート(1,800m)の翡翠色の昆明湖の北岸にたっているのを一望した。すっと西方には、万年雪の山々が空にひろがっていた。

 

 その日の夕方、雲南府に着くと、料理人は、二人の青年に別れをつげて、どこかのフランス人の台所を望みの綱として立ち去っていった。朱と友は、小さな宿屋に泊まったが、そこは、南京虫がよそほどいないと自慢していた。チンは、城壁外5マイル(8キロ)のウチャパというところにある軍官学校にいる、成都出身の友人へ手紙を書いた。朱将軍がいうには、当時は、よその省のものは、古くからの居住者か、雲南の良家の後立てと保証がなければ、雲南軍官学校に入ることはゆるされなかった。